救われなかったら何にもならないのか
「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」
(領解文)
浄土真宗では、「雑行・雑修・自力の心」が廃らなければ、阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられる。
「雑行」とは、自力の心で行う諸善をいう。「自力の心」とは、阿弥陀仏の救いに役立てようとする心だ。「後生の一大事、弥陀に助けてもらいたい」という心でする諸善万行を、雑行というのである。
「まいた種は必ず生える。まかぬ種は絶対に生えぬ」。善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理は三世十方(過去・現在・未来のすべてと、大宇宙のあらゆる場所)を貫く真理。諸善に努めれば、必ず善い果報に恵まれる、と説くのが仏教である。
ではなぜ、諸善を「雑行」と嫌われ、捨てよといわれるのか。それは悪い「自力の心」で行うからである。「自力の心」さえ廃れば、諸善は「御恩報謝の行」と変わる。
「雑修」とは、自力の心で行う五正行をいう。五正行とは、朝晩の勤行のことである。
『正信偈』や『御文章』を拝読するのが読誦正行、弥陀やその浄土を思念する観察正行、弥陀一仏を礼拝する礼拝正行、称える念仏は称名正行、そして弥陀一仏を褒め称え、供養するのを讃嘆供養正行という。
これらは、弥陀の救いと関係の深い行だから「五正行」といわれ、釈尊はじめ善知識方(正しい仏教の先生)は皆、勧められている。
これも、実践されねばならない大事な行なのだが、「自力の心」でやっているから「雑修」と嫌われ、捨てよといわれるのである。
「自力の心」が廃り、弥陀に救い摂られたならば、朝晩の「仏恩報謝の行」となる。
例えば、同じ菓子箱でも、試験前に教師に渡せば「ワイロ」になるが、試験に合格した後なら「お礼」になる。同じ菓子箱でも、「心」一つの違いで、善くも悪くもなるように、「諸善」や「五正行」が、「雑行・雑修」となるか「報恩の行」となるかは「自力の心」が廃ったかどうかの一点にかかっているのである。
では、悪い「自力の心」とは、どんな心であろうか。それは阿弥陀仏の本願を疑っている心だ。この心一つが昿劫流転の元凶(過去幾億兆年より迷い続けている親玉)なのである。
十方衆生(すべての人)は、善のかけらもない、念仏も称え切れない極悪人と見抜いて、「そのまま救う」と、命懸けで阿弥陀仏は誓っておられるのに、自惚れて、「これだけ善に励んでいるから」「これだけ念仏称えているから、助けてくださるだろう」と計らっているのは、本願を疑っている心だから、これほど恐ろしい心はないのである。
ゆえに、「雑行・雑修を捨てよ」とは、あくまでも「自力の心を捨てよ」ということである。
「阿弥陀仏に救われなかったら、諸善や五正行(勤行)をしておっても何にもならん」と言うのは、甚だしい誤解である。まさに外道の放言だ。
何にもならんことを、善知識方が勧められるはずがない。
それどころか、「諸善」や「五正行」は、弥陀と釈迦の善巧方便(目的を果たすための巧みな手段)なのだ。
本師本仏の阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を真実の十八願まで導くのに、五劫(幾億兆年よりも永い期間)に思惟なされて、十九、二十の方便願を建てられた。その十九の願意を、弟子の釈迦が一代かけて開説されたのが仏教であり、廃悪修善の教えである。
弥陀の十九、二十の方便願に照育され聴聞を重ねると、聞即信の一念に「雑行・雑修・自力の心」が廃り、十八願の真実に転入させられるのである。
この三願転入の道程を、蓮如上人は『領解文』に、「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」と簡潔に教導されているのである。
五正行
(1) 読誦正行─── 『正信偈』や『御文章』を拝読すること
(2) 観察正行─── 阿弥陀如来と、その浄土を思い浮かべること
(3) 礼拝正行─── 阿弥陀如来一仏を礼拝すること
(4) 称名正行─── 阿弥陀如来の御名(念仏)を称えること
(5) 讃嘆供養正行─ 阿弥陀如来一仏を褒め称え、供養すること