『正信偈』起草の目的は何か
親鸞聖人は今日、世界の光と仰がれている。それは、聖人が90年の生涯教えていかれた教えが、全人類の救われるたった一本の道だからである。
聖人の教えの全ては、『正信偈』に書かれている。「きみょうむりょうじゅにょらい」で始まる有名な『正信偈』は、朝夕勤行している親鸞学徒の家庭なら、子供でも暗唱しているほどだ。
1行7文字、120行からなる『正信偈』は、聖人が一字一涙の思いでご執筆なされたものだが、一体目的は何であったのか。『正信偈』の最後に、それは明記されている。
「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」
“道俗時衆、共に同心に、唯この高僧の説を信ずべし”
「道俗時衆」とは「すべての人」のことである。「共同心」とは「共に同心になってくれ」ということだ。どうか「すべての人よ、親鸞と共に、同じ心になってもらいたい」と『正信偈』を結んでおられるのである。
えっ、親鸞聖人と同じ心に?そんなこと考えられない、と誰しもが思うだろう。800年前の、しかも世界の光と仰がれる親鸞さまと、私たちが、どうして同じ心になどなれようか。皆、そう思うに違いない。
だが間違いなくなれるのである。この不審を解くカギは、「親鸞と同じ心」とは、どんな心なのかだ。それこそが『正信偈』冒頭の「帰命無量寿如来、南無不可思議光」“親鸞は、無量寿如来に帰命いたしました。親鸞は、不可思議光に南無いたしました”と叫ばれている心なのである。
無量寿如来も不可思議光も、阿弥陀仏のことであり、南無も帰命も、「救われた、助けられた」ことだから、弥陀に救われた慶びを、繰り返し表明されているのだ。無限に言わずにおれぬ、書かずにおれぬ、生命の大歓喜である。
弥陀の救いは、死んでからではないぞ。この世のことだ。ぼんやりした救いではない。ハッキリする。弥陀の救いは、平等であり決勝点があるから、親鸞と同じ心に必ずなれるのだから、決勝点まで求め抜けよ、と聖人は仰っているのである。