正しく聞けているか
二千畳の正本堂は、いよいよ聞法者の熱気であふれている。
「一実円満の真教」を説き切られる高森顕徹先生の一言一言を、聞き漏らすまい、正確に聞き取ろう、とする真剣さがみなぎっている。
それは、休憩時間、昼休みでもそうだ。法城のあちらこちらで、法友が熱心に話し合っている。
「あそこは、どう聞いた?」
「私は、こう聞かせていただいた」
「あのお言葉は、どういうこと?」
「こういう意味でしょう」
「いや、私はこう理解した」
各自が、自分の理解に間違いないかを確認し、しっかり聞けなかったところを法友に尋ねる。
ご縁の浅い人には、聞法歴の長い人が丁寧に説明する。それでもハッキリしなければ、講師に聞く。質問や疑問は、お互い真剣な聞法の勝縁である。
人生は聴聞なり。仏法(弥陀の本願)を聞きひらくための、この命なのだ。
それを釈尊は、
「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」
とおっしゃっている。
「信・不信ともにただ物を言え」
親鸞聖人の「一実円満の真教」を正しく聴聞せずして、生命の尊厳は絶対に分からない。
だから蓮如上人は、『御文章』にこう教えられる。
「在家無智の身をもって徒に暮し徒に明して、一期は空しく過ぎて、終に三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、わが信心は・ひとの信心は如何あるらんという信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということは、かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ言語道断あさましき次第なり。
所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり」
仏法を語れ、信心の沙汰をせよ、と強く勧められている。
何年聞いたといっても、聞き誤り、誤解、曲解が山ほどある。正しく聞いていないのだ。
自分の迷った考えで聞けることだけ聞いていては、真実が心に入らないのである。
蓮如上人は、「物を言え、物を言え」とも仰せである。
「物をいわぬ者は恐ろしき」「信・不信ともにただ物を言え」「物を申せば心底も聞え、また人にも直さるるなり。ただ物を申せ」
と、繰り返しおっしゃっている。
分かったような顔をしていても、実はちっとも分かっていない。だから、迷った言葉にすぐ動揺する。
そのまま死ねば、後生は一大事である。
自分は、弥陀の御心を正しく聞けているか。
正しく話ができているか。
何度も何度も、信心の沙汰をしなければならぬ。
「罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし」(蓮如上人)