信心の沙汰は 真宗繁昌の根元
同朋の里A館ロビー
「会合の時は、相互に信心の沙汰あらば、これすなわち真宗繁昌の根元なり」と蓮如上人は仰有っている。
仏法が心にコトッと落ちるまで、いくたびも信心の沙汰をせよ、と繰り返し教えられている。
親鸞会の同朋の里・新館建設は、学徒同士が疑問をぶつけ、解消し、ともに光に向かってたくましく歩むためにある。平成20年5月18日の親鸞会館でのご法話のあとも、A館C館ともに満員で、熱い讃嘆がなされていた。
関東、東海、岐阜、福井など、各地の親鸞会会員でどの部屋もいっぱい。廊下を歩くとドア越しに熱気が伝わる。岐阜の会合に顔を出すと、聞かせていただいたばかりの『歎異抄』第一章について、早速語り合っていた。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。(歎異鈔第一章)
「『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』とは、どうなることですか?」
「『往生をば遂ぐるなりと信じて』と同じでしたっけ?」
「そうそう、で、その『信じて』というのは、疑わんよう疑わんよう、疑いを抑えつけた『信じて』じゃなくて、ハッキリしたことやったね」
「そおや、親鸞聖人が『信ずる』と言われる時は、疑いのなくなったことで、だから『往生をば遂ぐるなりと信じて』とは、いつ死んでも浄土往生間違いなしとハッキリしたということや」
「よく聞いておられますね。明るい明るい無量光明土(極楽浄土)に生まれることがハッキリします。じゃあ救われるまでは、何がハッキリしないんですか?」
「後生?自分が必ず行かねばならん行き先。後期高齢のその先や」
「ああハッキリせんねえ」
「では蓮如上人は、どう教えておられますか。ほら『御文章』で挙げて。皆さん、一緒に読んでみましょう」
「はい」
〈まことに死せん時は、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ〉
「すごいすごい、ピッタリ息が合って」
「喜んでる場合じゃないですよ。私たちの間違いない未来なんだから。お金があろうとなかろうと、頭がよかろうと悪かろうと、最後必ずぶち当たる。その時は全部この世において、丸裸で次の世界に出かけていく」
「人が死んでいったのを見ると、冷たくなって、火葬されて、骨になって。その人はどこへ行ったのか?と思う」
「そうでしょ。その行き先の分からない心が無明の闇」
「それが、すべての人の苦悩の根元て言われました。うーん、でもそれがね、もう一つね」
「そこですよ。後生が分からず、行き先が不安なまま、今を喜べますか?今の幸せがむなしくなる。皆さん、これまで腹底から笑ったことありますか?」
「漫才見た時は、腹抱えて笑いました」
「そういう笑いじゃなくて、うれしくてですよ。生まれてきてよかったなと」
「そりゃあ、ないな」
「社長になったのに?」
「ない、ない」
「本心から喜べたことって、ありそうでない」
「そういえばそう」
「喜べても小さい。『御文章』にもほら、『うれしさを昔は袖に包みけり』とあるとおり。そうさせている元が無明の闇ですよ。心の奥底にあるから、だれもなかなか気づかないのですが、これが苦しみの根っこです。
その無明の闇が、弥陀の誓願不思議でぶち破られると生命の大歓喜がおきる。それが摂取不捨の利益です。阿弥陀仏にガチッと摂めとられて、決して捨てられることがありません。
それが『御文章』に『今宵は身にも余りぬるかな』とあるのです。弥陀に救われた大歓喜はケタ外れですよ。」
話し合いはまだ続いたが、夕影が同朋の里を包むころ、三々五々に解散していった。玄関を出ると皆、意気揚々とバスへ向かう。「聞かせていただいた直後に話し合うと、ほんっとに元気が出ます。いいですよ、信心の沙汰って」
親鸞会会員の法悦の輪は、ますます広がっている。