戦前、後生の一大事が語られていた|親鸞会
富山県の横田みつ子さんは、戦前、戦後を通じて、浄土真宗の道俗の実情を目の当たりにしてきた一人である。
富山県 横田みつ子
昭和8年、浄土真宗の盛んな熊本県天草郡佐伊津村(現・天草市佐伊津町)に、11人兄弟の8番目として生を受けました。
昔のことで、子だくさんではあったのですが、11人中6人が次々と病気などで亡くなりました。子を失った母にとって、わが子も、自分も、死んだらどうなるか、後生は大問題でした。
足しげく寺参りしていた祖母の影響もあり、母は戦前、熱心に聞法していました。私も母から、
「前生で、地獄を出る時に、水を飲んで、砂食べるような生活でも、仏法は必ず聞くぞと心に誓って、私たちは人間界に生まれてきたんだよ」
と言い聞かされ、6歳頃から寺に連れて行かれました。
「私、お参りしたくない」
と、だだをこねた時には、
「法蔵菩薩がねじり鉢巻きで、後生の一大事、解決せよと押し出してくださっているんだから、聞かんばダメよ」
と諭されたものです。
幼かったので、寺の説教は、あまり覚えていませんが、
「火柱抱えるつもりで真剣に聞き求めねば、後生の一大事は解決できない」
と話されていたのを記憶しています。「火柱抱える」よりも大変な一大事と聞いて、驚いたのだと思います。
寺の宝物を虫干しにする日には、地獄絵図を見せられました。鬼に舌を抜かれたり、まないたの上で切り刻まれている罪人が描かれていて、
「地獄とは何と恐ろしいところか」
と思ったものです。
寺の説教以上に覚えているのが、法事の前夜に各家庭で勤められた、「御逮夜(おたいや)」といわれる仏法讃嘆です。親族の法要でなくとも、寺の前方で聴聞するような熱心な同行衆が5、6人、その家に集まっては、仏法を語り合うのです。母や大叔母と、小学生の私も、提灯を持って出掛けました。祖父の命日には、うちでも勤められたのですよ。
進行は、寺の世話役のおじいさんでした。「後生願いの松じいさん」と呼ばれていた人です。「御逮夜」でも常に、後生の解決を果たさねばならないと語り合われていました。
普段も、うちの縁側に同行たちがやってきては、日なたぼっこをしながら、たびたび信心の沙汰をしていました。
戦時中は仏法から遠ざかったものの、敗戦後、19歳で上京してから、
「後生の一大事、解決するために生まれてきたのだから」
と思い、東京の築地本願寺(西)に月に2、3回、2年間、通いました。浅草の東京本願寺(現・浄土真宗東本願寺派本山東本願寺)を訪ねたこともあります。しかし、西でも東でも、後生の一大事は一言も聞けません。
「嫁姑が仲良く暮らすには、我慢が大事」
「腹が立っても、口に出さないのが、家庭円満の秘訣」
という話ばかりで、仏法の「ぶ」の字もないなあ、と思いました。
聞く側も、
「嫁と家にいるより、ここのほうが気楽でいいから」
と言うおばあさんや、
「京都の本山で、5回もお剃刀を受けたのよ」
と、教えに帰依する儀式を極楽往きの切符のように思っている人など、後生の解決を真剣に求める同行はありません。戦争を境に、真宗はどうなってしまったのか。
昭和37年に高森顕徹先生にお会いしてやっと、後生の一大事とその解決を聞かせていただけるようになったのです。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)