龍谷大学でも聞けなかった「一念」
住田 芳子(仮名)
「親鸞は今救われた!」と『正信偈』冒頭に叫ばれていることを知ったときは、魂がバリバリバリと音を立てて崩れ落ちるようなショックで、その場から立ちあがることができませんでした。
ああ、浄土真宗は、この世で助かる教えだったのかと知らされ、涙が止めどなく溢れ出したのです。30年間、求め続けた親鸞聖人の本当の教えに、ようやく今、遇うことができました。
島根県に生まれ、仏法熱心な家庭で『正信偈』を聞きながら育ちました。
高校時代、仏教への関心から罪悪を知らされ、後生の不安を感じるようになりました。
死んだらどうなるのか。その答えが知りたくて、京都の龍谷大学の短大へ行くことに、決めたのです。将来は、坊守(寺の住職の妻)になって、自らご法話を真剣に聞き、参詣された方のお世話をしたい。そんな夢を抱いていました。
ところが大学の講義に、まず失望しました。『正信偈』は、通り一ぺんの解釈だけで、帰命とは何か、分からない。魂に響くものがなく、生死の問題はハッキリしないまま、すべて素通りしていきました。
クラブ活動は、浄土真宗の教えを多くの人に伝えようとしている人が集まる伝道部に、迷わず入りました。しかし、ふたを開けてみると、寺の跡取りで、嫌々来ている学生がほとんどだったのです。「なんで寺に生まれたのか」「これからどうやって生活していこう」と、いつも寺の愚痴をこぼしていました。真宗の実態を知って落胆し、間もなく退部しました。
説教所である総会所や、大阪、奈良、滋賀などの別院に通っても、念仏さえ称えておれば極楽へ往けるという説教ばかりで、現在の明らかな救いは聞けません。
「死んだら極楽」と、ひたすら信じて、有り難そうに念仏を称えている人もいましたが、何かしっくりこなくて、なじめませんでした。
こんなハッキリしないものが、親鸞聖人の教えなのか。それとも、浄土真宗はもう廃れてしまったのだろうかと思い始めたのです。
2000畳でビックリ
結婚後、大阪に移ってからも、我が子の手を引き、阪急電車を乗り継いでは、ほうぼうの寺を回り、また福岡や東京へ転勤となった時も、行く先々で親鸞聖人の教えを探し求めました。
知り合いから、いろいろな宗教に誘われても、自分は南無阿弥陀仏の浄土真宗だ」という気持ちが常にあるのですが、同時に、「でも、どこで聞けるのよ!」と心の中で叫んでいたのです。
転勤を終え、再び大阪へ戻るとき、「また浄土真宗の教えが聞けぬ場所で暮らすのか……」と暗い気持ちでおりました。 そんな私の家に、2年前、1枚のチラシが届いたのです。懐かしい「親鸞聖人」の文字。仏教勉強会の案内でした。
「え?まさか……」と半信半疑ながらも、市内の会場に自転車で向かいました。
その時、幼いころから親しんでいた『正信偈』の意味をお聞きし、阿弥陀仏は、この世で助けると誓われていることを、始めて知ったのです。
「えーっ!『今、救われた』ということがあるの?『一念で救われた』ということがあるの!」と驚きました。
2000畳の親鸞会館に参詣したときは、全国各地、世界中から、親鸞聖人の教えを聞きに来ている人を見て、またビックリ。
こんな集まりがあるなんて知らなかった。これほど多くの人が、親鸞会で真剣に仏法を求めていることも全く知りませんでした。
お釈迦さまや親鸞聖人、蓮如上人のご文をまとめられた『教学聖典』を開くと、すごい、すごいの連続です。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」(教行信証)
や
「若不生者の誓いゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ」(親鸞聖人)
など、この世でハッキリと弥陀に救い摂られた親鸞聖人の大歓喜のお言葉、その切れ味のよさにしびれます。
『本願成就文』抜けていた
2月の2000畳・親鸞会館でのご法話で、「阿弥陀仏の本願」と「本願成就文」について詳しくお聞きし、弥陀の救いを「死んでから」と聞き誤るのは、本願成就文の教えを知らないからと分かりました。
「弥陀の本願」とか「十八願」という言葉は大学でも習いましたが、親鸞聖人が「仏教の至極(最も大切な御文)」と言われる本願成就文は、一度も聞いたことがありません。
ああ、今の浄土真宗には、この本願成就文が説かれていなかったんだ。「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」、これが抜けていたんだと、まざまざと知らされました。
高森顕徹先生が50年以上前、親鸞会結成以前から、この世でハッキリ救われる、本願成就文の教えを説き続けられたからこそ、平生業成の教えに巡り遇えたのだと、深く感謝せずにはいられません。
現在、親鸞会の会員として、親鸞聖人の教えを聞かせていただいております。この尊法を家族にも、友人にも知ってもらいたいと思います。
※「阿弥陀仏の本願」とは、阿弥陀仏が約束なされていること。『歎異抄』の冒頭には、「弥陀の誓願不思議」と書かれている。 「本願成就文」は、阿弥陀如来の本願の真意を、お釈迦さまが明らかになされたものである。
「阿弥陀仏の本願」だけでは、我々凡夫にハッキリしないところがある。それは、お釈迦さまが明らかになされた「本願成就文」に依らねば分からないから、親鸞聖人は、「本願成就文」こそ、仏教の至極だと教えられている。
「
『横超』とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。」
(教行信証信巻)