親鸞会 会員の声
平成16年5月
心渇き、荒れた少年時代
(大阪府 男性)
私は生きることに意味などないと思い続けていました。特別な才能があればともかく、平凡な人間には、平凡な人生しか待っていない。「それでも生きる理由は何なのか?」。自問せずにおれませんでした。
そんな私に、次々と面倒なことを押しつける学校や両親に、中学のころ、ついにキレ、手がつけられないほど暴れ、家の中はまるで地獄でした。
当時私は、「苦しいのになぜ生きるのか。親は勝手に生んでおきながら、『育ててやった』と恩着せがましく言う。『育ててやった?』ふざけるな。おれはそもそも生まれたくなかった。今でさえ、生きるのはこんなに面倒なのに、社会に出てどうなる? つまらない仕事をして、年取って死ぬだけ。いったい何なんだ? 人生って。『ガンバレ、ガンバレ』って言うやつらは、頑張ってどうするつもりだ。頑張ればいいことあるのか? こんなこといちいち考えるおれが異常なのか?」と、いらだち続けました。
高校を出て間もなく、親鸞会の友人より聞いた親鸞聖人の教えは青天の霹靂でした。答えなどないと思っていた人生の目的を、聖人はハッキリ教えておられたからです。
生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になる、と教えていただきました。むなしいのは、能力のせいではなく、真の人生の目的を知らないからだ、と切り込まれ、今までの人生観は根底から覆されました。
私は今、公認会計士試験に向け勉強しています。親鸞聖人の教えこそ、生きる目的に悩むすべての人の心の光と確信します。
友人の祖母と親鸞会館へ
(東京都 男性)
平成16年2月の親鸞会館ご法話の時、大門町(現・射水市)に住む友人に仏法を伝えたくて、家に泊まらせてもらいました。すると、友人のおばあさんが、私が仏法を聞きに富山まで来たことを知って喜び、『正信偈』を出してこられました。親鸞聖人を尊敬していて、朝夕の勤行を欠かさず、寺にもよく行ったそうですが、『正信偈』の話は聞いたことがないと言います。冒頭の意味を話すと、「こんなに分かりやすい話は初めて」と感激されました。
「『正信偈』のお話をされている会場が近くにあるんですよ」と親鸞会館を案内すると、一緒に参詣することになったのです。
会場では、多くの若者が真剣に聞法する姿に感動し、「親鸞さまもお喜びになる。浄土真宗を繁盛させねば」と言われました。
休憩時間には、「こんな素晴らしいお話は寺では絶対に聞けない。近くにりっぱな建物ができているのは知っていましたが、あなたのおかげで尊いご縁を頂きました」と、満面の笑みでした。ご法話の翌朝も、「『正信偈』の話をぜひ」と言われたので、聖人のご一生や、「恩徳讃」の意味、弥陀と釈迦との違いを話しました。
帰りは駅まで見送りに来られ、「また来てね」と、姿が見えなくなるまでホームで手を振ってくださいました。
「善知識にあうことも
おしうることもまたかたし」
親鸞聖人の教えが近くで説かれていても、なかなか聞くことができない。仏縁の有り難さが知らされます。若くしてこの教えに巡り遇えた宿縁を喜ぶばかりです。
弥陀の本願こそ無上の法
(台湾 女性)
ご法話に初めて参詣した日、『正信偈』の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」から、阿弥陀仏の本願を詳しく聞かせていただき、体が震えました。
「無上甚深微妙(みみょう)の法は、百千万劫にも値遇(あいあ)うこと難し。われ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん」(釈尊)
日課のようにあげてきたこの言葉の意味が初めて分かったからです。今までは何の感情もなく、ただ勧められるから読むだけでした。「如来の真実義」といっても、はるかかなたで、自分とは関係のないものと思っていました。
しかし、親鸞会とご縁があり、実際に阿弥陀仏がましますこと、今、救われる素晴らしい世界のあることを知り、私は心から阿弥陀仏の本願を讃嘆せずにおれません。弥陀の本願こそまさに「無上の法」であり、「甚深かつ微妙の法」であると確信しました。
探し求めていた真実の仏法に、今こうして巡り遇えた私は何と幸せでしょうか。
願わくば、台湾の人たちにこの真実を知ってもらいたい。そして、ともに信心決定(しんじんけつじょう)の身にならせていただきたいと心より念願いたします。