やっと出遇えた「なぜ生きる」
「十分幸せじゃない、それ以上何を求めるの?と言われました。
でも例えば、ビルの屋上から一人一人、順番に飛び降りねばならないとして、〝立っているだけなら何の不安もない〟と言う人あるでしょうか。その列に並んでいながら、
〝まだ自分の番じゃないから大丈夫〟なんて、安心できなかったんです」
死の不安を意識するようになったのは、小学校に入る前からだった。
テレビのニュースで、死が報じられるのを見聞きするたび恐怖を感じた。
昼間は友達と無邪気に遊ぶ普通の女の子だったが、夜、電気を消して布団に横たわると、どこからともなく自分の死のカウントダウンが聞こえる。
家族や友達に、「死ぬの怖くない?」と尋ねても、「まだ死なないよ」「憶病だね」と、まともに相手にされない。
自分だけが異常に思え、死の不安を心の奥底へ押し込めた。
「書店に行くと、なぜか目に飛び込んでくるのは、いわゆる人生本でした。
立ち読みしては、満足できずに閉じる、その繰り返し。
よく店頭に並ぶ瀬戸内寂聴さんの本も読みましたが、『心の持ちようが大切』『大事なのは笑顔でいること』という、生きていくエールばかりで……」
知りたいのはそういうことではなかった。
どんなに頑張ってもいずれ死ぬ。
その事実を無視して、〝前向きに生きよ〟は、ごまかしじゃないのか。答えを期待するほど落胆する。
この手の本は読まないほうがいいと思った。
やがて『人生の目的』という五木寛之氏の本がベストセラーになる。
つい手に取ってみると、「かつてないショックを受けました。このタイトルならきっと何かあると思って読んだのに、結論は『目的はない』と書かれてあったからです」。
しかも五木氏は、「目的はない」としながら、「生きることは素晴らしい」と言う。
死の問題を放置したまま、どうして生きることが素晴らしいといえるのだろうか、全く受け入れられない。
もう二度と人生本は読まないと誓った。
親鸞聖人の断言
それから数年後、再び書店で立ち止まった。
〈人生の目的は何か〉
本の帯に青い文字でハッキリ書かれてある。
『なぜ生きる』。親鸞聖人の教えの本だった。本当にこれが最後、と意を決して読み始めた。
「一部は興味深く読んだのですが、二部に入ると、『宗教の話はいいから、早く人生の目的を教えて……』という気持ちで読み流してしまったんです」
目的が書かれてあるかどうかも分からないまま、本棚に片付けてしまいました。
しかしその後、伯母と祖父母が、立て続けに亡くなり、また死のことが頭から離れなくなる。
みんな死んでいくのに何のために生きてるんだろう?
その時もう一度開いたのが、『なぜ生きる』だった。
今度は一部よりも二部の親鸞聖人のお言葉に強く引かれた。
「〈人生の目的はあるのか。〝あるから早く達成せよ〟〉 まず冒頭のこの断言に、ドカーンときたんです。
そして一文一文、なるほどなるほどと、うなずきながら食い入るように読みました。
この本は、『生きる目的を見つけよう』とか、そんなレベルの本じゃない。ほかの人生本と全く次元が違う。とにかくすごい!完全に理解したわけでもないのに、続きを読まずにおれなかったんです」
繰り返し拝読するうち、仏教では、死んだらどうなるかハッキリしない心(後生暗い心)を「無明の闇」と説かれていると知り、驚きと喜びが噴き出した。
翌年、知人から、地元での高森顕徹先生のビデオご法話を教えてもらい、足を運んだ。
「宗教に慎重派だった私ですが、『なぜ生きる』でも、ご説法でも、先生は常に、親鸞聖人のお言葉を示してお話しくださる。その説得力に圧倒されたんです。
ご自分の思いや考えを話されているのではないんだと感じました。
昨年、降誕会で初めて二千畳に参詣した時、めちゃめちゃ感動しました。いつもビデオで拝見していた高森先生が、目の前でご説法くださっている!
二千畳で法友と勤行した時も、法友と喜びを語り合えるのもうれしかった。もっと早く出遇いたかった」
降誕会のあと、「親鸞学徒になりたい」と夫に打ち明ける。
「宗教はダメ」と言われるかと構えたが、「おまえがいいと思うものなら間違いないよ」と言ってくれた。
「信じてくれた夫に感謝しています。この人と一緒になれて本当によかったと思います。今の幸せを大切に、光に向かって進ませていただきます」
(プライバシー保護の為、個人名は仮名にしてあります)