涙の底に光あり
いくら待てど 妻は再び
福井県 加藤良一(仮名 60代男性)
7月19日は、忘れられない日です。最愛の妻・清子(仮名)が、この世に生を受けた日。そして、福井の集中豪雨が、妻の命を奪い去っていった日。
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「普通じゃないぞ……」
雷が鳴り響き、バケツを引っ繰り返したような雨の降り方に、何か胸騒ぎを感じました。平成16年の7月18日、午前8時半ごろのことです。家の北側2メートルわきを流れる川の水量は一気に増加し、そのうち家の前はひざまで水浸し、歩行もままならない状態になりました。それから、2時間たったころでしょうか。
ガーッ、ゴドゴドゴド!!
上流の堤防が決壊、川の水が家の南側にも押し寄せ、辺り一面、腰までつかるほどの水沼とか下のです。南北を濁流に挟まれ、慌てて公民館へ避難しました。
嵐が去った昼過ぎ、家に戻ると、目も当てられない惨状でした。激流で、川の側面のコンクリートははがされ、重さ50キロのガスボンベは、2本とも配管からちぎられ影も形もありません。バイクも車も、もちろん浸水。台所の床はえぐり取られ、家の基礎まで流されたのです。パニックでした。
泥水の悪臭が立ちこめる中、翌日19日は朝から晩まで散乱したゴミの処理に、妻と2人でかかりきりでした。
その晩のことです。妻は心身ともに疲れ果て、倒れてしまいました。救急車で運ばれ、心臓が弱っているとの診断。電気ショックを与え、心臓マッサージを繰り返しましたが、その甲斐なく、61歳の誕生日に生涯を閉じたのです。
「ついさっきまで、あんなに元気だったのに……」
命のはかなさを痛烈に知らされました。
しかし、突然の妻の死を悲しむまもなく、葬儀の手はずを整え、親戚の対応、泥の処理と、てんてこ舞いに動き回るよりありませんでした。忙しさに、涙も出なかったのです。
妻が死んだという事実を、しばらく理解できませんでした。まだそばにいるのではないか、よこで寝ているのではないか、いつか戻ってくるのではないか、そう思えてなりませんでした。
2年ほどたった、ある日の夕暮れ時、ふと、「清子の帰り、遅いなぁ。買い物にでも行っているのか」と思われ、なおも妻の帰りをまっている自分に気がつきました。しかし、どれだけ待っても妻は絶対に反ってはこないのです。妻とは別れてしまったのだ、もう、この世にはいないんだ。あぁ、一人になってしまったのだなぁ。底知れない寂しさと悲しみに襲われ、一人部屋で泣き崩れました。
振り返れば16の時、母は肺炎を患い、42歳でこの世を去りました。そして父は、58で他界したのです。
人は必ず死ぬ。一人残された人生、何のために生きねばならぬのか。考えずにおれませんでした。
そんな7月のある日。親鸞会発行のチラシが舞い込んだのです。
「幸福はどこからやってくるのか。親鸞聖人は、『正信偈』にハッキリ教えておられます」。
優しい言葉が素直に心に入ってきました。
「これは、何がなんでも行かんならん」
迷いなく地元の講演会に参詣し、親鸞会館で行われた追悼法要に初めて、2000畳の大講堂に足を踏み入れました。
「我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず、おくれ先だつ人は、
本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。」(白骨の御文章)
蓮如上人の「白骨の御文章」が心にしみ入りました。
「全く、そのとおりだ。無常の風が、自分に襲いかかってくるとは思っていなかった。人が先に死ぬのではない。次は私の番だ。父も母も、妻も身をもって私に無常を教えてくれたのだ」
妻があんなに早く他界しなければ、仏法を聞こうとはしなかったでしょう。二親とも若くして亡くしておりながら、驚かない私に、無常を知らせてくれたと思わずにおれません。親鸞会に入会し、親鸞学徒となった喜びを胸に、妻の分まで光に向かって進ませていただきます。