舞い込んだ 親鸞会館の絵葉書
島根 倉本真治さん
近くの公民館で親鸞会の法話があると聞き、倉本真治さんは車を走らせた。昨年8月、蒸し暑い土曜日の午後のことである。
駐車場に車を止め、ドアを開けると、どこかで聞いたことのある声がした。遠く記憶をたどると、紛れもない高森顕徹先生の声であった。
「なぜ?どうして島根のこんな片田舎で高森先生のご法話が?それにしては車が少ないではないか」。不可解に思いつつ会場の扉を開くと、そこには、スクリーンで叫ばれる懐かしい姿があった。
30年ぶりの再会だった。
親鸞会講師の熱烈な説法に圧倒
仏法との出遇いは、大学2年の春休み、島根に帰省した時だった。
高森先生の著書を手に、一軒一軒回って布教していた親鸞会の講師が、親戚の家で法話を開くことになった。若い女性講師という珍しさも手伝い、参詣すると、その熱烈な説法に圧倒された。
この人を突き動かしているものは何か、富山からやってきてまで伝えようとしているものは何なのかと気にかかり、続けて聞法しようと決心した。
大学が始まり名古屋へ戻ると、当時愛知で活動していた講師と連絡を取り、聞法の日々が始まる。仏法一筋の大学生活となったが、卒論研究が始まったころから次第に足が遠のきだした。
就職し島根に戻ったころには、仏法はそっちのけで仕事にどっぷりつかっていた。
それから30年。会社では課長に昇進したが、上司と部下の間に挟まれ、仕事に行き詰まりを感じ始める。
さらに父が病死、人は必ず死ぬという現実を突きつけられた。世の中には真実頼れるものは何もない。
本当にそうだった。このまま自分も一生を終えるのか、と思った。
思ってもみなかった会館の姿
そんな矢先、1枚の絵葉書が舞い込む。
差出人の山本さん(親鸞会会員)に心当たりはなかったが、親鸞会館の写真と50周年大会の案内が記されていた。
倉本さんの知っている親鸞会館は、木造の高岡市芳野の会館だった。こんな立派な会館が建立されたとは思ってもみなかった。
数日後、山本さんから2通目の絵葉書が届き、地元の勉強会に誘われ、冒頭の30年ぶりの聞法となったのである。
ビデオではなく直接お聞きしたいと、50周年の参詣をその日即座に申し込んだ。
「社会にもまれてから聞く仏法は、全く重みが違いました。学生時代はただ知った、覚えたで、合点さえできていなかったのです」
50周年では、2000畳でじかに「恩徳讃」のご説法に触れることができた。
聞法して涙を流したのは初めてだった。
残りの人生、仏法にかけようと、12月、母親と一緒に親鸞会会員となった。
「仕事に明け暮れ、だくだくと流されて生きていたところを、1枚の葉書に押し出されました。危ないところでした。阿弥陀仏のものすごいお力に感謝しています」
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)