「仏法聞かせてもらいや」
亡き叔母の願い 胸に
滋賀県 岸本めぐみ
私の叔母は、今年の6月1日、ちょうど81歳の誕生日に、亡くなりました。
ほんの2、3日、入院して家に戻るはずでしたが、急に容体が悪くなり、誕生日が、命日になったのでした。
生まれながら関節の病で、思うように動けない体でした。
それでも、若い時は、洋裁の腕を身に着け、不自由な体でミシンを踏んで、近所の皆さんの服を作ってあげて、皆さんからも「よしちゃん、よしちゃん」と慕われていた叔母でした。
しかし、年齢が進むにつれ、歩けなくなり、やがて立てなくなり、家の中でも、じっと座っていることしかできない体になっていったのです。
生きる希望もなく、泣き続けていた叔母でしたが、昭和25年6月に、近くの寺の住職が、「今度、素晴らしい布教使さんが来られるからね」と誘ってくれ、参詣したところ、学生時代の高森顕徹先生のご説法だったのです。
「このお方こそ、私の先生」と確信し、聞き求め、やがて弥陀の本願を喜ぶ身となったのです。
それからも多くの法友の皆様にお世話になって、各地へ聞法を続けておりましたが、病気がひどくなり参詣できない時には、自宅で時計を見ながら、「あ、勤行が始まった時間や」とか、「今、先生のご説法が始まった」「ああ、『恩徳讃』を歌っておられるころだ」と、高森先生のご苦労をしのんでいたのでした。
いつも「高森先生のお話を聞かせてもらいや」と周囲の人に伝えていました。
1人に19年間で200通の手紙を
家に訪ねてくる人があれば病気も忘れたように、起き上がって話をし、夜1時、2時ごろまで手紙を書き続け、それも便箋に20枚30枚と書いていましたので、封筒に入れるとパンパンになりました。
それをぎゅーっと折り畳んで、何とか封筒に納めるのが、私の仕事でした。
叔母が亡くなってから、福井県の方から頂いたお葉書には、「よしのさんから、19年間で200通のお便りを頂きました」と書かれていました。
1人の方にそれだけ出したとすれば、全部合わせるとどれほどの便りを書いたものか、想像もできません。
昨年の親鸞会結成50周年大会が親鸞会館の最後のご縁となりました。
叔母のたっての希望で、親鸞会滋賀会館で、お通夜と葬儀を勤めていただきました。
なかなかご縁のなかった村の皆さんも、バス2台で会館まで来られ、2日間にわたって親鸞聖人の本当の教えを聞かれたことを、叔母も喜んでいると思います。
今も、自宅で毎月1回の講演会、月3回の信心の沙汰をさせていただいております。
叔母の願いどおり、私もこの幸せな道を、進ませていただきたいと思います。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)