宗教は何を救う!?
杉村 由美さん(仮名)
多くの日本人は漠然と、「宗教は必要ない」と考えている。せいぜい条件付きで、必要な人のために「あってもかまわない」という程度であろうか。
天理教の家庭に育ち、物心ついた時から〝宗教〟とかかわってきた杉村さんも、「宗教とは『一つの生き方』を教えたもの」と思っていた。だが大学で親鸞聖人の教えに巡り遇い、その宗教観は一変した。
父の実家が天理教分教会で、周りじゅう天理教の信者ばかり。幼少のころから天理教的価値観、世界観の中で生きてきた。
やがて小学校へ通い、普通の友達と接するようになると、天理教では常識になっている天地創造の〝親神サマ〟や、黒いハッピ姿で踊ることが、現代社会からは奇異なものであることに気づく。
「友達には、カッコ悪くて言えませんでした」
以来、天理教を避けるようにしてきたが、3年前、布教師の祖父が危篤となる。今まで敬遠してきた祖父と、病床で初めて正面から向かい合った。人生の土壇場で、家族や見舞いに来た信者にほほえみかける祖父の芯の強さに、「これが宗教者というものか」と心を動かされた。
荒唐無稽に思えた教理も、信者にすれば真理であり、信ずることで強くなれるのなら、
「それはそれで立派な生き方ではないか」
と思うようになった。
それからは、天理教の行事に顔を出し、教理も熱心に勉強するようになる。家族はようやく安堵した。
ここで終われば天理教の機関紙に載りそうな話である。だが杉村さんの本当のドラマは、ここからだった。
大学に入学した春、親鸞会の人から親鸞聖人の教えを聞き始めた。
絶対の幸福と聞いても、初めは天理教と同じようにしか聞こえなかった。違いを明確に感じたのは三世因果である。
私はどこから来て、どこへ行くのか?どうしてここにいるのか?自分の存在意義が分からず、漠然とした不安を子供のころから抱えていた。どう生きるかを考える前に、そもそもこの「生」が、どうして「今」「ここに」あるのか、その訳を知りたいと思っていた。
天理教では、天地創造の親神サマの〝思し召し〟と言う。それが心底信じられれば、不安は解消するのかもしれないが、似たようなことを教える宗教はゴマンとある。杉村さんのどうにも腑に落ちない点だった。
仏教の三世因果は違っていた。個々の生命に三世(過去世、現在世、未来世)があり、自分の身に起こる一切の運命は、全部自分の行為が生み出したものだという。
「三世因果は、永遠の生命の上に説かれますから、理性ではつかみ切れません。
でも私の心の奥底が理解したんです。ずーっと隠されてきた秘密を見せられたようで、雷に打たれたようになってしまいました。話してくれた人が、三世因果でこんなに泣く人初めて見た、と言うくらい大泣きしたんですよ」
天理教はじめ、ほとんどの宗教は、天地創造の神がいて、運命はその支配を受けると考えている。
しかし仏教では、
「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経)
と教える。
一切は、己が心の中に記録した原因が、毎日現れてくるのである。善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によるのだから、善いのも悪いのも、自分の蒔いた種が生えたもの。
その日は、泣きながら下宿に帰り、電話で母親に何もかも話した。
「真実と思えるものにようやく出遇えた喜びと、真実の重みに怖くなってかけた電話でもあったんです」
三世因果の教えによれば、現在の自己を徹見すれば、三世を流転する自己の真実が知らされる。その自己とは、
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
昿劫より已来常に没し常に流転して、
出離の縁有る事無し」(教行信証)
〈いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の自分〉である。
「祖父の姿に引かれて天理教を学びましたが、祖父も私も、自分を罪悪生死の凡夫とは思ってもみませんでした。天理教とは、救おうとする根本が違うんだと思いました」
絶対の幸福とは、永久に救われざる者が永久に救われる、聖人も「不可称、不可説、不可思議の信楽」と叫ぶよりほかない世界であった。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし」(教行信証)
〈ああ……何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた〉
人生の目的どころでない、多生永劫の目的があるからこそ「人命は地球より重い」と断言できる。それが仏教と知って感激した。
両親も、今では後押ししてくれるようになった。
「万人共通唯一の人生の目的を教えてこそ宗教です。それが根底になければ、政治、経済、科学、医学をはじめ、生きる手段は全部宙に浮いてしまうことを、両親にも伝えたいと思います。」