「分かる話」をするのは難しい
東京都 金本信二さん
6月の親鸞聖人降誕会に続いて、7月の親鸞会館のご法話に参詣した法友の感想が心に残りました。
彼は将来、教員を目指しており、すでにボランティアで小学校の現場に行き、経験を積んでいます。
授業では、学年や学力が同じでも、30人の生徒に分かるように話をするのはとても難しいし、相当の経験と工夫がなければ授業は成立しないそうです。
ところが二千畳では、何千人もの、年齢も、聞法歴も全く異なる人が、心を一つに聞き入っています。これは考えられないことだと驚いていました。
また、そのように聞かずにおれない、仏法の深さに感銘を受けています。
その彼も友人に仏法を伝えようとしており、「一人に分かってもらうのも大変だ」と言っています。
正しく教えを理解して伝えられるようになりたいと、親鸞聖人の教えを勉強しています。
彼のように純粋に仏縁を喜ぶ人とともに求めさせていただけるご縁を、有り難く感謝せずにおれません。
終わりなき道 完成のない「経済」
公認会計士 田崎剛志さん
どれだけ求めても何も得られない道なら、そこを進む足に力が入るはずはありません。
何も得られないのでは、という不安を抱えながらつらい思いをするなら、しないほうがましだと思うのは当然です。
自殺するのが正常な考えになってしまいます。
不況の今を乗り越えれば、と、会社の経営者も一般の消費者も、みんな耐えて頑張っています。
しかし景気に波があるのは資本主義の鉄則であり、100年以上前から繰り返されてきたことです。それでは、と試みた共産主義も崩壊しました。
どこまでいっても完成のない「経済」では、人間を不安のない本当の幸福にすることはできないと知らされます。
帰命無量寿如来 無量寿如来に帰命し、
南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる。
弥陀に救われた、ということがある。完成したということがあると教えられた親鸞聖人のみ教えはまさに驚きであり、全人類の光です。
「完成がある」と聞けば、その前後の違いはどうなのか、最も知りたいことです。
それにもハッキリと聖人は答えられている、完全無欠の教えと思わずにおれません。
已能雖破無明闇 已に能く無明の闇を破すと雖も、
貪愛瞋憎之雲霧 貪愛・瞋憎の雲霧、
常覆真実信心天 常に真実信心の天を覆えり、
譬如日光覆雲霧 譬えば日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧之下明無闇 雲霧の下明かにして闇無きが如し。
『正信偈』にこんな深い内容が説かれていると知らされ、より真剣に拝読させていただかねばと思いました。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)