『歎異抄』読めど分からず
嘉嶋幸作(仮名)
私は、81年前、広島で生まれました。
昭和20年8月6日、原爆投下の朝、電車で広島を出て助かり、駅まで見送りに来てくれた弟2人が原爆で焼け死にました。あの時、なぜ、自分は生き残ったのか、なぜ弟だけが死んだのか、どれだけ考えても分かりませんでした。
キリスト教でいう様な神がいて、そのようにしたのかとも考えてみましたが、答えは出ないまま、疑問は少しも晴れませんでした。
また、私よりも10才以上若い家内が、数年前、60代でガンで亡くなり、なぜ、今、自分だけが生きているのか、何の為に生き残っているのか、常に考えておりました。
新聞で、「なぜ生きる」の広告を見た時、青天の霹靂でした。「なぜ生きる?」いつも心にかかり、答えを知りたいと思い続けて来たからです。
早速購入し、読んでみました。しかし、余りにも意味が深く、すぐには理解できませんでした。
しばらく、そのままになっていましたが、親鸞会主催の講演会のチラシが入り、講演会に参加してみると、昔から読んできた『歎異抄』のお話しでした。
分かりやすいお話に驚きました。高森顕徹先生の説法を聴聞させて頂き、人生には、目的があり、生きねばならない理由を知らされ、今は、喜びの心につつまれています。
今までどの歎異抄の本を読んでも分からなかった意味が、少しずつ知らされます。歎異抄の本当の意味は、高森先生から聞かなければ分からないのではないだろうか、と思います。
『歎異抄第4章』の説法を聴聞し、人間の慈悲から生み出された政治も経済も科学もすべては、どこまで求めても完成の無い道であり、本当の意味で救い切ることの出来ないものであると断言されたことに、大きな衝撃を受けました。
宇宙観についても、仏教の考えを聞いて、今まで学んで来たことを修正しなければならないと思います。
また、因果の道理を聞いて、なぜ弟だけが死んでいったのか、少しずつ心の整理がついてきたように感じます。
さらに、自分が今までやってきた学問は、学問の中の一分野であり、どこまでいっても、完成がないと知らされます。
「なぜ生きる」の素晴らしさも段々と分かってきました。親鸞会と出会ったことで、仏教の奥深さが知らされる毎日です。