親鸞聖人に順ってこそ親鸞学徒 尊ぶ根本は御名号 (1/2)
親鸞会 顕正新聞
「南無阿弥陀仏」が御本尊
本願寺も『宗報』に明記
今日、全国の浄土真宗寺院の本尊は、阿弥陀仏の木像で統一され、門徒の仏壇も絵像か木像となっている。この現状に親鸞会は、南無阿弥陀仏の御名号こそ、正しい本尊と指摘し続けてきた。
絵像・木像でもよいと、ずっと主張してきた本願寺も、教学伝道研究センター所長が、「『南無』まで含めて『南無阿弥陀仏』を本尊とするのであり、『阿弥陀仏』だけを本尊とするのではありません」と『宗報』(本願寺の月刊誌)に記述するなど、変化の兆しも見えている。
なぜ、御本尊は南無阿弥陀仏でなければならないか。そもそも南無阿弥陀仏とは何なのか、よく知っておこう。
何のための誰のための御名号か
本師本仏の阿弥陀仏が、「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」という誓いを建てられ、それを実現するため作られたのが、「南無阿弥陀仏」である。六字の「名号」と言う。『教行信証』には、阿弥陀仏がその名号をつくられた経緯が詳述されている。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証)
〈すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、全くない〉
「ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり」(教行信証)
〈かかる苦しみ悩む一切の人々を阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫の間、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を完成されたのである〉
名号を受け取る一つで救われる
まことの心のない凡夫には、真実を信ずることも、聞くこともできない。五劫の思惟でそう見て取られた阿弥陀仏が、兆載永劫のご修行の末、南無阿弥陀仏の六字に、信ずるまことの心(南無)も、助けるまことの力(阿弥陀仏)も成就され、その名号を受け取る(信心獲得)一つで、いつ死んでも浄土往生できるようにしてくだされたのである。だから他力の信心といっても、名号六字のほかはない。
この南無阿弥陀仏を一念で弥陀より賜って往生一定と救い摂られた親鸞聖人が、根本に尊ぶべき御本尊を、御名号と定め、勧められたのだ。
まことの心は微塵もないと、すべて見抜かれたうえでの弥陀のご本願と知れば、理屈を並べて木像絵像に固執するのではなく、親鸞聖人のお勧めどおり御名号を安置し、朝夕礼拝させていただいてこそ、親鸞聖人の御心にかなうのである。