泳ぐ方角なぜ論じられぬ
それが「煩悩具足」の実態|親鸞会
分かっていないのは私だった
兵庫県 親鸞会 会員 竹田 沙里
「どう生きるか」の手段ばかりで、「なぜ生きるか」の目的が全く論じられないおかしさを、今まで何度も教えていただいて、「こんなに明らかなことが、なぜ世の中の人は、分からないのか」と思っていました。しかし、これは自分が分かったつもりになっていただけで、分かっていないのは私のことでした。
聖徳太子は
「世間虚仮 唯仏是真」
と言われ、親鸞聖人は
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまこと」
と仰っています。
「なぜ生きる」が抜けたまま、「どう生きる」ばかりを論ずる世の中は「虚仮」であり、「空事・たわごと・真実あること無し」であることは、自分の体験からも分かると思っていました。
しかし、「世間虚仮」と「唯仏是真」は同時、「空事・たわごと・真実あること無し」と「ただ念仏のみぞまこと」も同時に知らされると聞いて、ハッとしました。
夢が夢と分かるのは、夢から覚め、現実を知った時。
泳ぐ方角が論じられないおかしさを、おかしいと知らされるのは、方角がハッキリした時、弥陀弘誓の船に乗せていただいた時。
そこまで真剣に聞かせていただかなければならない、と知らされました。
弥陀はどんな者のために
兵庫県 親鸞会 会員 河合 加奈子
もし私が、空と水しか見えない海に放り出されたらどうするか、と問われた時、あまり泳げない私は、溺れて苦しむだろうと思いました。そしてワラをもつかむ思いで、丸太や板切れを探すでしょう。
お金や地位、名誉、家族、政治、経済、医学など、人間の営みは全て丸太や板切れであり、泳ぎ方のコーチにすぎないと教えていただきました。
いちばん大事なのは、どこへ向かって泳ぐかという目的地です。それなのに泳ぎ方ばかりに一生懸命で、目的地を考えようともしない、それが煩悩具足の実態です。弥陀の救いにあわせていただくには、弥陀がどんな者のために本願を建てられたのか、本願の「生起」を親鸞会の二千畳でよく聞かせていただかねばならないと知らされました。
楽を求めず、苦労して足で聞くようにしたいと思います。
迷いの眠りから覚めるには
愛知県 親鸞会 会員 野中 真一
すべての人は煩悩具足だから、「どう生きる」しか関心がなく、「なぜ生きる」を考えようともしない、と教えていただきました。
連日、居眠り運転や、他事を考えていたため交通事故になった悲劇が後を絶ちません。被害者もジゴクなら加害者もジゴク。眠ってはいけない時に眠り、他事を考えてはいけない時に考えてしまう煩悩の恐ろしさを感じていました。
しかし、そんな「どう生きる」という問題以上に大事な「なぜ生きる」については、すべての人は深い眠りにおちています。
迷いの夢の中で、欲を満たすことに必死で、目覚めようとする者も、起こそうとする者もいない。にもかかわらず、全く驚きも慌てもしない。それも煩悩の仕業です。
この眠りから覚めるには、大宇宙に響きわたっている弥陀の本願(呼び声)を聞くより他にありません。その弥陀の本願一つ説かれる親鸞会の二千畳に、これからも参詣したいと思います。
(※プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)