御名号本尊へ大きな流れ
福井県 古川秀子さん
春爛漫、越前・福井の街道に甲高い声が響き渡ります。「蓮如上人さまのお通ーりー」
私の嫁いだ家は「蓮如上人御影道中」のお立ち寄り所です。
蓮如上人の御影を、京都から、福井の吉崎御坊まで一行50人余りでお送りする行事です。
各地のお立ち寄り所で門徒は、上人のご苦労をしのびます。
主人の先祖は江戸時代から御下向御上洛のお世話をして今年で335回になります。
立ち寄る僧侶は金ピカの木像本尊を見て、「古川様の阿弥陀さまは特別輝いておられますよ」と褒める者ばかり。それを私たちは喜んでいたのです。
私が親鸞会の会員にならせていただいたのは平成13年でした。聞法を重ねたある日、
「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
蓮如上人のお言葉に衝撃を受けました。
親鸞聖人の勧めていかれた御本尊は御名号のみと知らされ、家族でただ一人親鸞学徒である私は、どうすればよいか悩み抜きました。
その時、高森顕徹先生は教えてくださいました。「いつの時代でも真実の仏法を開顕する者は、真実に対して潔癖でなければならない」と。
事は後生の一大事です。夫に「一生のお願いです」と手を突いて頼んでおりました。
真剣な私の態度に、離婚の申し出と勘違いしたそうです。
御本尊の話に夫は、「村の衆がありがたく拝んできたものだからなあ」と、最初は難色を示しました。
しかし、両聖人のお言葉に動かされ、平成15年、正御本尊をお迎えできたのです。
とはいえ一抹の不安もありました。
事が起きたのは、3年後の平成18年御影道中の時です。
蓮如上人ご到着。僧侶とともに60代の男性が入ってきました。
突然仏壇をビデオ撮影し、「何や、この家は名号か。あんたら親鸞会か」とどなり始めたのです。
あまりの態度に私は我慢できず、「そんなことを言うのは、やめてください」と叫んでおりました。
騒ぎはおさまったものの、「今までの阿弥陀さまはどこへやったんや」。集まっていた村の衆の声が聞こえ、家族も親戚も、驚きと動揺で顔色を失っておりました。
10日後、上洛の一行を迎える時にはどんなことが起きるのか。
不安な気持ちを夫に打ち明けると、「木像本尊は間違いだから御名号に替えたんやろう」と優しく言ってくれ、こんなに心強いことはありませんでした。
かくしてその日を迎えました。やってきた僧侶は正御本尊に深々と礼拝し、参詣者に向かってこう言ったのです。
「本日、お参りし、さすがだなと思いました。親鸞さまの教えでは『南無阿弥陀仏』の名号こそ正しい御本尊なのです。この家はみ教えに従い正しいお仏壇にしておられる」
全くの予想外の展開に声も出ません。親戚も村人も、御名号に合掌し「よかったね」と声をかけてくれるではありませんか。
ありがたくて涙があふれました。主人も嫁も泣いていました。
それからです。息子夫婦も仏法に理解を示すようになり、夫は親鸞会での法話の会場として、もう一つの家を提供してくれたではありませんか。
親鸞聖人のみ教えに従えば、必ず道は開けることを身をもって知らされました。
乱世に蓮如上人は、親鸞学徒の手本を示され、真宗再興を成し遂げられました。
今、浄土真宗は、高森先生の真実開顕で大きく変わろうとしています。
その証拠に西本願寺は、最高法規「宗制」で、御本尊は南無阿弥陀仏と認めざるをえなくなりました。
大宇宙無二の大法、南無六字に生命を懸ける親鸞学徒は、全人類を浄土へ送り届ける重大な鍵を握っています。
聖人のみ教えにひたすら従っていきたいと思います。
解説
真宗界に波紋 この矛盾どうする
蓮如上人御影道中のお立ち寄り所として、300年以上支えてきた小林家の御本尊が御名号に替わった。
西本願寺も、親鸞聖人が生涯、御名号を本尊とされた事実を認めている。また蓮如上人の、「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』というなり。当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」の明快なご教示も知っている。
だが本山はじめ、別院、末寺に至るまで、過去何百年間、木像本尊で通してきた。この明らかに親鸞聖人の教えに反した歴史的事実を、繰り返し親鸞会から指摘され、苦慮し続けてきたのである。
〝木像も絵像も名号も変わらないから、木像を本尊にしてもいいのだ〟と、強弁し続けたが、親鸞聖人を敬う全国の門徒からは、ご教示どおり御名号本尊にしたいという動きが相次いでいる。
今回のことはその好例で、寺も対処せざるをえなくなったのだろう。
その顕著な表れが、昨年公表された、西本願寺の最高法規「宗制」の改定である。
御本尊の規定についてこれまでは「本尊は、阿弥陀如来一仏である」とだけ記されていたのが、新「宗制」では、「南無阿弥陀仏」の六字名号が加えられている。
『本願寺新報』に掲載された「改正した理由」を読むと、「救済の法そのものである名号をともに示すことによって、尊号を本尊とする形式を持つ浄土真宗の特色を表す」とある。
つまり「名号」を御本尊とするのは、「救済の法そのものである」から、ということだ。
浄土真宗の教義安心の至極である本願成就文の「聞其名号信心歓喜 乃至一念」からすれば、それは明白なことなのだが、教えに反する現状を今後どうするのだろうか。