わが家に正御本尊を
聖人の教えどおりに
京都府 Nさん
「蓮如上人があんなにハッキリ、『当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり』とおっしゃっているんですからね。根本が間違っていてはだめだと思います」
自動車修理工場を営むNさんは、自宅の仏壇を開き、8月にお迎えしたばかりの御名号を前に、そう語った。
※名号-南無阿弥陀仏のこと
工場を長男に譲り、悠々自適の生活を送り始めた平成20年2月、新聞折込の仏教講座の案内チラシが目に留まる。「それまでは仕事が忙しくて見向きもしませんでした。でもなぜかその時は、引き寄せられたように、会場へと向かっていたんです」
以来、毎月仏教講座に通うようになり、同じ仏法を聞く友人もできた。勧められた小冊子を読むと、正しい御本尊は御名号と書かれてあった。親鸞聖人のアニメを見ても、聖人は常に御名号を礼拝されている。自宅の御本尊は、京都の本願寺から下附されたものだが、絵像であった。
親鸞聖人のご教示どおり、御名号本尊にしたいと支部長に申し出ると、親鸞学徒の案内を受けた。
8月、親鸞会館で行われた、親鸞学徒追悼法要に参詣。人間の実相のご説法に、正しい教えに遇えた感動が込み上げる。ご下附式に参加し、お仏壇用の正御本尊も申し込んだ。
正御本尊をお迎えしてより、朝夕の勤行は欠かさない。正しい節が身につくよう、導師のテープを流しながら拝読する毎日だ。
根本が狂えばすべてが……
Nさんは述懐する。
「実は20歳のころ、隣に下宿していた知人の勧めで、創価学会に迷ったことがあったんです」。だが、熱心な真宗門徒だった母の『正信偈』の調べが耳の底に残っていたためか、学会の勤行に違和感を覚え、すぐに辞めた。「創価学会でさえも、事、本尊については『根本が狂えば全部狂う』と言いますよ。最高無上の親鸞聖人のみ教えを求める者の、朝夕、礼拝する御本尊がどれでもいいはずがありません」
お聖教に根拠明らか
富山県 Yさん
「正御本尊をお迎えしてから朝夕欠かさず、『正信偈』『御文章』を拝読するようになりました。聖人の教えのとおりにさせていただき、親鸞学徒の誇りと喜びをかみしめています」。高岡市のYさんは、平成20年2月、お仏壇に正御本尊をご安置した。
「初めて親鸞会館に参詣した時は、本尊が御名号だったので驚きました」
ただその時は、"寺は木像だし、家は絵像、ここは南無阿弥陀仏だが、どれも同じようなものだろう"と思ったという。
その後、高森顕徹先生のご法話で
「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』というなり。
当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」(御一代記聞書)
(浄土真宗の本尊は、木像、絵像よりも、名号にしなさい)
という蓮如上人の明快な根拠を知る。
近くの親鸞会主催の家庭法話に足を運ぶたび、お仏壇に御名号が安置されているのを見て、これが本当の親鸞学徒なのだと感じた。
自宅の仏壇の御本尊は、100年以上前から伝わるものだが、絵像であった。
「正しい教えを聞いていなかったからでしょう。親鸞聖人の本当の教えを知った自分が、そのままにしておくわけにはいきません」
正直、絵像のほうが有り難いと思う心があったが、「仏法の目的は後生の一大事の解決一つ。そのために最も尊ぶべき御本尊が、親鸞聖人の教えに反していてよいはずがないと思ったのです」。人から何と言われようが、お聖教に書かれてあるとおりにさせていただこうと決心した。
無上の幸せにするの名号のはたらき
正御本尊をご安置する遷仏会では、蓮如上人の『御文章』5帖目のご文から、「南無阿弥陀仏」の六字の名号の中には無上甚深の功徳のあることを聞いた。(※)
「親戚から『なんで御本尊を替えたんだ』と尋ねられた時は蓮如上人のお言葉を示しています。自分が正御本尊をお迎えしたことで、親戚にもいい流れが生まれたらと思っています」
※「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。(御文章5帖目13通)
「南無阿弥陀仏」といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである。