『正信偈』にこんな意味が
広島県 島田 ますえさん(仮名)
親鸞会館の2000畳で『正信偈』の一字一句を開いて教えてくださり、こんな深い意味があったのかと、頭をカーンカーンと叩かれ、身の毛が立つような感動でした。
私は、仏法熱心な安芸門徒の家庭で生まれ育ちました。3歳ごろから母と『正信偈』に親しみ、文字は読めなくても音で覚えていました。祖父からはいつも、「仏法を聞くのに、足を投げ出したり、居眠りしたら大変なことよ」と言われておりました。
そのうち、自ら寺に足を運ぶようになり、60代までつづけましたが、何十年と聞いても何かが物足りない、と感じるようになったのです。
寺にきている人で、若い人は一人もいません。親鸞さまに申し訳ないなあ、と漠然と悩み始めるようになりました。
そんな平成19年5月、1枚のチラシが舞い込んできました。親鸞会主催の仏教講演会の案内チラシでした。
「親鸞聖人の教えなら寺であるはずでは?」と思いながら、近所の親鸞会主催の講演会場へいきました。
「こんな深いお話、ほかでは聞けない」と直感し、7月初めて、富山県の親鸞会館に参詣しました。
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」。
高森顕徹先生の讃題をお聞きしたとき、背筋にゾカーッと電流が走ったようでした。
親鸞聖人のお言葉から、平生業成(平生に人生の大事業が完成する)の弥陀の救いを明らかにされるご説法に、深く感動したのです。
寺に長年通っても分からないのは聞き足りないからだと思っていましたが、ハッキリしない話を千回、万回聞いても分かりようがないのだと、今回ハッキリしました。
今では友人に次々声をかけ、
「老後の旅行もいいけど、本当の親鸞聖人のみ教えを聞いてない?」と誘っています。