教えを聞けずに25年
親鸞会で知らされた平生業成|親鸞会
「若い時に親鸞聖人の教えに出遇えた人はうらやましい。熱心に求める姿、いつも感動します」
今年78歳になる田端民江さんには、ひときわそう感じる理由がある。
若い頃、寺で聞いたのは、「念仏の日暮らしすれば、死んだら極楽」という誤解された仏教ばかりだったからだ。
「もっと早く本当の親鸞聖人の教えを知りたかった。親鸞聖人750回忌の今年、親鸞聖人の教えを伝えるのは今しかありません」
田端さんは、何とか親鸞聖人の教えを知ってもらいたい、と多くの知人に声をかけている。
富山県 田端 民江
みんな親鸞聖人の本当の教えを知りたがっている
「なぜか今年、体調がとってもいいんです。750回忌に、阿弥陀仏が動け動けと押してくださっているとしか思えません」
と田端さん。同年代Kさんと初めて会ったのは1年前のことだった。
今年1月、昼過ぎに訪ねると、「上がって」と言われ、6畳の居間に通された。
「田端さんは寺に熱心に通っていたのに、どうして縁がなくなったの?」
「この世でハッキリ阿弥陀仏に救われると、親鸞聖人が教えられていることを、高森先生から聞かせていただいたのよ。
救われる前と救われた後と、どこがどう変わるのか、その一念の水際を説かれるお話にビックリ仰天したの。
寺では聞いたことないわ」
「そんなにすごいこと?」
「『正信偈』の最初に『帰命無量寿如来』とあるでしょ。
親鸞聖人が、この世で阿弥陀仏にハッキリ救い摂られたと仰っているのよ」
「えーそんな意味なの?」
目を丸くしたKさんは、奥の部屋から『正信偈』を持ってきた。
「もう一度説明して」
と頼んで、お言葉の意味をノートに書き始めた。
その後、Kさんは高森顕徹先生の『歎異抄をひらく』を読み、次に田端さんが訪問した時、歎異抄第2章の
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
の「ただ念仏して」の意味を尋ねてきた。
「みんな親鸞聖人の本当の教えを知りたがっているんでしょう。かつての私のように……」
教え聞けずに25年
鳥取県の大農家で生まれ育った田端さんが、真剣に寺参りを始めたのは20歳の時。
生後間もない子供を肺炎で亡くした。
読経が一番の供養と教えられ、いつも「阿弥陀仏は十劫の昔に私らが助かるように修行してくださった。わしらは、それを有り難く思って念仏相続すれば、死んだら極楽(※1)。念仏の日暮らしが大切」と聞かされた。
だが、幾ら称えていても心は満たされない。
「人間に生まれたのは仏法を聞くためだよ」と母から聞いていた田端さんは、これが本当の親鸞聖人の教えなの?疑問は消えなかった。
30代の頃、報恩講で門徒の家を回る住職を呼び止めて、尋ねたことがある。
「お釈迦さまは何を説かれたのか、なぜ親鸞聖人は尊敬されているのか聞かせてください。お寺さんは仏法を教える立場の方でしょ」
「そんなこと言われると怖いですね。私、坊主地獄に堕ちますね。ハハハ」
笑いながら立ち去る住職の後ろ姿が、目に焼きついている。
そんな田端さんは46歳の時、初めて親鸞聖人の平生業成(へいぜいごうじょう)の教えを知る。
親鸞会の法話ばかりに参詣する田端さんを、何とか寺に引き留めようと、ある日、門徒総代が訪ねてきた。
「親鸞会は新興宗教じゃないのか?」
「親鸞聖人の『正信偈』の意味を教えてくださるんですよ。どこが新興宗教なんですか。
『正信偈』冒頭の意味、知っていますか。
聖人がこの世で阿弥陀仏に救われたことを喜ばれているお言葉ですよ」
阿弥陀仏とお釈迦様の違いも聞いたことのない門徒総代は、一言も返せなかったという。
弥陀の救いは、今
聞法のために田端さんは、富山県に移住。
子供3人も親鸞聖人の教えを聞き求めるようになり、ともに光に向かっている。
親鸞聖人の教えは生きている時が勝負、「弥陀の救いは、現在ただ今」と知らされ、寺にささげた25年が恨めしい。
「十劫安心の異安心(※2)にだまされている人がどれだけあるでしょう。
そう思うと家にじっとしておれない。平生業成の親鸞聖人の教えを皆さんに伝えたいんです」
自転車のハンドルを握る手に、力を込めた。
※1:称名正因の異安心
「念仏さえ称えていたら助かる」というのは、親鸞聖人の教えではありません。浄土真宗では、それを「称名正因の異安心」といわれ、間違いであると教えられています。
「世の中に人のあまねく心得おきたるとおりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり」
(『御文章』三帖目四通)
(世の人は皆、ただ「南無阿弥陀仏」と声に出して称えれば、極楽へ往けると思っている。それは大きな間違いである)
※2:十劫安心の異安心
阿弥陀仏が成仏された十劫の昔に、すでに皆助かってしまっているという誤った信心で、親鸞聖人の教え勧められた他力の信心とはまったく異なるものだから異安心と言われる。
「『十劫正覚の初より、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、即ち信心のすがたなり』といえり。これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし」
(『御文章』二帖目十一通)
(“生まれた時から、すでに私たちは阿弥陀如来に救われてしまっている。それに気づいたのが信心だ”と言う者がいる。これは絶対に、真実の信心ではない)
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)