願海の真仮 明らかに|親鸞会
願海に就きて、真有り仮有り。(教行信証 真仏土巻)
“弥陀の本願には真(真実)と仮(方便)とがある”
真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
(教行信証 真仏土巻)
“この真実願と方便願を建てられた、弥陀の大慈悲心を知らないから、不可思議の弥陀の救いに値えず、広大無辺の恩徳も分からないのである”
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)
“「聞」とは、阿弥陀仏の本願は、どんな人のために建てられたのか、どのようにして建てられたのか、その結果はどうなったのか、これら一切に〝疑心有ること無し〟となったのを聞というのである”
私と関係のある阿弥陀仏の三つの願
滋賀県 親鸞会 会員 山野 恵理子
蓮如上人が、「五つのものがそろわなければ、浄土往生できませんよ」と教えてくださっている極めて重要な「五重の義」について、高森顕徹先生から聞かせていただきました。
これによりて五重の義を立てたり。
一には宿善、
二には善知識、
三には光明、
四には信心、
五には名号、
この五重の義成就せずは、
往生は叶うべからずと見えたり。
(『御文章』二帖目十一通)
政治も経済も医学もスポーツも芸術も、この五つのものをそろえて、浄土に往生するために、存在するのだと聞かせていただき、驚きました。
生まれ難い人間に生まれ、こんなすごいことを知って生きている人が、どれほどあるでしょう。聞き難い法を聞かせていただいている、有り難い仏縁に感謝せずにおれません。五つのものは私にとって大問題です。
その1つ目である宿善には、厚薄があると教えられています。宿善薄い者はどう求めていくのか、蓮如上人は、「弥陀の光明に遇いて」と仰せです。「弥陀の光明」とは、阿弥陀仏の本願のことであり、48願ある中で、すべての人と約束されている18願、19願、20願の「摂生の三願」だけが、私と関係のあるお約束です。私の生きる意味はここにあるのだと、喜ばずにおれません。
そして親鸞聖人は、この三願に真実と方便があることを、「願海に就きて、真有り仮有り」と断言なされています。親鸞聖人の特徴の中の特徴である大事なところを聞かせていただきました。
親鸞聖人は、19願の「至心発願」、20願の「至心廻向」を根拠に自力と見抜かれ、18願は「至心信楽」を根拠に他力と明らかにされたことを知らされました。親鸞聖人の凄さに驚くばかりです。
すべての人と約束された弥陀の三願に疑い晴れる
京都府 親鸞会 会員 村中 洋介
阿弥陀仏の48願の中で、十方衆生と約束されているのは18願、19願、20願の三願だけであり、この摂生の三願によってすべての人は救われることを親鸞聖人は教えてくださっています。そして、三願には、真実の願と方便の願があることを、「願海に就きて、真有り仮有り」と断言されています。
「すべての人を必ず無碍の一道へ出させてみせる」と弥陀が本心を誓われた18願が真実の願であり、19願、20願はそこまで導くために建てられた方便の願です。
方便なくして、真実へ入ることは絶対にできない。これは弥陀が五劫の思惟によって十方衆生の姿を見抜かれてのことです。
この三願転入の教えが、親鸞聖人の教えの根基であり、こんなすごい教えられ方は、親鸞聖人が初めてとお聞きしました。
そして親鸞聖人は、
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」と、聞即信の一念、阿弥陀仏の三願に対する疑いが晴れるのだと教えられています。
一念の決勝点を突破しなければ、真実を真実、方便を方便と知らされることはないのだと分かりました。
「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」という親鸞聖人のお言葉のとおりです。
親鸞聖人の教えのみ「断言」
富山県 親鸞会 会員 沢井 公孝
最近、こんな記事が新聞に載っていました。
「新粒子はヒッグス粒子と呼んでよい」「ヒッグス粒子であることを、CERNがほぼ断定したと考えてよい」と、断定という言葉を使いながらも、「ほぼ」「考えてよい」「呼んでよい」と書いてありましたので、歯切れの悪さは否めません。精密といわれる現代科学でも、断言はできないのでしょう。
親鸞聖人は、「願海に就きて、真有り仮有り」と、阿弥陀仏の本願に真と仮があると断言されています。
主著の『教行信証』の断言に、並々ならぬ大自信を感じました。そのような親鸞聖人のみ教えを明らかに聞かせていただけることを喜ばずにおれません。
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