お慕いしてきた親鸞聖人のみ教え
澤田光子 さん
「昔から、なぜか親鸞聖人に心引かれておりました」
20歳で結婚。以来約40年、専業主婦として家庭を守ってきたが、2年前、頼りにしていた夫を亡くす。
一人家に取り残されたようで、思い出しては涙に暮れた。
聖人は、悲しむ人にこそ寄り添いたもうのか、昨年9月、郵便受けに講演会のチラシが舞い込んだ。澤田さんの目に
「親鸞聖人」の文字が鮮やかに飛び込む。
案内されていた区民センターに出掛けると、寺とは違う形式の法話会だった。戸惑いつつも、係りのさわやかな応対に、自然と心が開いていった。
講演が始まると驚きの連続。親しんできた『正信偈』の意味を、こんなに分かりやすく解説してもらえるとは思っていなかった。
初めて聖人のみ教えに触れた気がして、昨年11月の親鸞会50周年大会にも参詣。漠然と好きでいた聖人への思いが、深い敬慕に変わっていった。
「澤田家は代々仏縁深く、寺が月参りに3回も来るほどです。でも私が嫁いで40年、一度も仏法は聞けませんでした。親鸞学徒とならせていただくのに、ためらいはなかったです」
乾いた砂が水を吸うように、聖人のご教導に従おうとする澤田さんは、朝夕の勤行で礼拝する御本尊が、絵像であることに悩み始めた。
親鸞聖人は生涯、御名号を御本尊となされ、蓮如上人は、「当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号」と、ハッキリご教示なされている。
親鸞会の講師に申し出て、ご下附式に参加したその日、お仏壇用の正御本尊もお迎えした。
「ご本尊は品物じゃないんです」
だがその後、月命日に参った住職が、御本尊が替わったことに驚いた。
「親鸞会に入ったんか、この掛け軸では今後参れん」
頭ごなしの非難に、澤田さんは蓮如上人のお言葉を示し、毅然と反論した。
数日後、再び住職が現れ、
「本山にも、木像も絵像も名号もある。うちの名号にしたらどうだ。そうしたらこれからも参ってやる」
唖然とした澤田さんは、
「木像も絵像もある?何ということ言うんですか。品物じゃないんです。いちばん大事な御本尊ですよ。私は何と言われようと、替える気持ちはないし、親鸞会をやめるつもりもありません」
と言い返していた。
しかし今度は、その問答を後ろで聞いていた3人の娘が動揺した。
今までにない母の様子に、心配した次女が、耳にしていた本会への非難を打ち明ける。
だが澤田さんは、
「よく考えてごらんなさい。匿名の非難など何の根拠にもならない。匿名である以上、読む価値など全くない。それよりこの本を読みなさい」
と勧めたのが、親鸞会と寺の違いを明らかにした『どちらがウソか』。双方が責任の所在を明らかにした法論である。
「お母さんはね、根拠のない物は読まないの。分かるでしょ」
揺るがぬ母の信念に、娘も、「読んでみる」と言って、高森顕徹先生のご著書を読み始めた。
凛としたたたずまいの団塊世代。親鸞会とご縁を結んでまだ半年だが、親鸞学徒の本道をまっすぐに進んでいる。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)