プロ棋士の向こうに見えた限界
清水 辰也さん(仮名)20代男性
私には、朝から晩まで一生懸命に打ち込むものがありました。
それは、将棋というゲームであります。小学生の時父から教わり、中学生になってから独学で将棋をはじめました。大会に出ると周りは大人ばかり。その中でグングン上達し、最初は勝てなかった大人たちにも、すぐに勝てるようになりました。そのことがとても楽しく感じられ、中学3年の頃には「もっともっと強くなって、プロ棋士になりたい。そうすれば、大好きな将棋を指しながら幸せな一生をおくれるはずだ。」と、強く信じて大きな目標を立て、ますます将棋に打ち込むようになりました。
高校では、高校生の全国1位になり、大学ではアマチュア全国2位になってプロのトーナメントに招待され、プロ棋士相手に名誉ある一勝を勝ち取ることができました。
しかし、将棋を始めてから9年ほど経って、少しずつ自分の心の変化に気付き始めました。
以前は勝っても負けてもすごく楽しかったものが、そのときには勝たないと自分の人生のすべてを否定される気がして、必死に研究しなければ不安になっていました。
勝負に負けると抜け殻のようになって、現実から逃げ出そうと夜道を一晩中徘徊していました。
「確かに、将棋は自分に一時の満足を提供してくれはするが、その一時の満足を得るために必死な毎日だ。こんなはずではなかった。もっと何か、とても大きな喜びや充実に溢れていると思っていたのに…」
もはや、将棋が周りの人間より強いということは、私にとって何の意味ももたなくなりました。愛用していた将棋盤や駒、机や床の上に山積みになっていた棋譜用紙や毎日の研究の成果もすべてゴミ捨て場に捨てました。こういった経緯で、どうやったら本当に満足が得られるか、真剣に考えるようになったのです。
しかし、考えれば考えるほど、絶望的でした。あれだけ努力した将棋でもダメだったのだから、他にどうすればいいのか…さっぱりわかりません。苦しみの根源を正しく知らず迷っていました。前に進むことができず、かといって後戻りもできない。自殺も考えましたが、怖くてとてもできません。毎日毎日、何をしてよいかわからず、とりあえず所属していた研究室で優等生のふりをしてみるくらいしかできませんでした。
そんなとき、キャンパスで歩いていると、興味深い話を持ちかけてくる人がありました。
「なぜ自殺をしてはいけないか、というテーマでゼミをしています。聞いてみませんか?」
私は、死のうと思って死ねる人は死ねばいいと思うし、死ねない人はなんとか少しでも幸福になれる道を探すしかない、理由も何も、そんなのは人それぞれだ、と思っていましたから、説明できるものならしてみろ!と、挑戦的な態度ではありましたがとりあえず聞いてみることにしました。
ところがいざ聞いてみると、どうやら自分の考えが間違っていることに気付かされてきました。やがて、親鸞会館の2000畳に参詣することができたのです。「もうこれしかない!親鸞聖人の教えしかない!」今まで苦しんだことが、この教え一つ聞くためであったと思えば、全く無駄だと思っていたものがありがたく思えて喜ばずにおれないと共に、私に声をかけて話をしてくださった方々、そして真実開顕に尽力される高森先生には、感謝せずにおれません。
一人でも多くの人に親鸞聖人の教えを正しく伝える親鸞学徒でありたいと思います。私からは親鸞聖人の教え、真実の仏法に出会えた喜びを話したいと思います。