信心の沙汰で、 仏法が自分の問題になる。 より真剣なビデオご法話に
Kさん
親鸞会では、世代をこえて、信心の沙汰が活発に行われている。
「『真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証)』のお言葉は、ご法話のどこでおっしゃったかな」
「親鸞聖人の教えられた信心と、世間の信心とは全く違うと話された時です」
「『真に知んぬ』とは、どんな意味ですか」
「微塵の疑いもなく、ハッキリ知らされたことだとお聞きしました」
仏語の深い意味を一つ一つ確認し、聞き誤りが正されていく。
学生たちとビデオご法話を聴聞したあと、Kさんが中心となり、いつも信心の沙汰をする。
「私の学生時代、先輩がそうしてくれたのです。聞きっぱなしではもったいない。ご講演を振り返れば、自分自身の問題として、より深く受け止められます」
特に、ご説法で話されたお聖教のご文について、次のような質問を投げかけるようにしているという。
○どのような順序で話されたか。
○何を説明されるためか。
○どうご説明なされたか。
○自分の人生に、どう関係すると感じたか。
「信心の沙汰をすると、普段は口数の少ない学生も、積極的に発言し、
『親鸞聖人の教えって、底知れぬほど深いですよね』
『仏法が自分の人生にとってどんな大きな問題なのかが分かり、もっと真剣に聞かねばと思いました』
と、言ってくるようになりました」
また、『教学聖典』のどこに載っているご文か、関連するご著書にはどう書かれているかを一緒に調べ、学生の教学熱もより高まっていった。昨年は、担当した一年生から二名、大導師合格者が誕生している。
Kさんの“粘り”の法施にも、定評がある。
「やめたい」と漏らす後輩に、人生の目的を話しながら、
“高森先生なら、伝え切られるに違いない。ここであきらめず、何としても「必ず救う」弥陀の大慈悲心を分かってもらいたい”
と自分を奮い立たせた。
熱意をこめて真剣に語るKさんに、心動かされた後輩は、今では中心メンバーとして、元気に聞法している。
休憩時間にも法悦の輪 「後生の一大事」を話す
Tさん
午前中から始まったビデオご法話の昼休み、「今日はこの人に」と決めた参詣者の横に座り、スケッチブックを取り出す。フェルトペンで「後生の一大事」と書きながら、
「先ほど、高森先生が、“後生の一大事”とおっしゃいましたよね。一息切れた後生に取り返しのつかない一大事がある。お経には、『従苦入苦』と説かれていまして……」。
会場に響きわたる声に、昼食を取り終えた参詣者が集まってきて、話に耳を傾ける。北海道のビデオご法話での、常の光景だ。
深くうなずいて聞いていた一人から、
「その書かれた紙、頂いてもいいですか」
と請われることもしばしば。
「でも、ここへ来た当初は、不安いっぱいだったんです」
主に学生にビデオご法話を開催してきたが、昨年一月、北海道の支部を担当することになった。
「両親や祖父母のような年齢の方に、何をどうお伝えすればいいのか」
悩んだ末、後生の一大事の徹底以外にないと決めた。
「私も親鸞会で仏縁を結んだころ、一大事の後生を知らされて初めて、真剣に聞こうと思いました。これなら、年配の人にも自信持って伝えられますから」
以来、ビデオご法話の昼休みに、後生の一大事を一対一で話すよう心がけた。
すると、同じ支部の親鸞会会員が、
「Tさんが仏法の話をされるから、一緒に聞きましょう」
と声をかけ、自ら近寄って聞く。ほかの参詣者も集まるようになり、毎回、Tさんを中心に輪ができるようになった。
こうして、後生の一大事を知らされた参詣者が続々と親鸞会と縁を結び、学徒となり、北海道から毎月二千畳へ参詣する人や、「町中の人に伝えたい」とチラシ配布に動きだす人も、多く現れたのである。
Tさんは、
「釈尊や親鸞聖人のお言葉を出して、真実いっぱい話せば、年の差は関係ありません。皆さんが喜ばれるのだと知らされました。これからも、親鸞聖人が叫び続けられた、後生の一大事の解決、弥陀の本願ただ一つ、私も伝えていきたいと思います」
と語っている。
「なぜ生きる」と 若者たちに問う
Bさん
昨年一月から、人口百万を超える杜の都・仙台を拠点に、親鸞聖人の教えを若者たちに伝えている。
ビデオご法話のあとには、一対一で法施したり、皆で仏法讃嘆をする。
「人間の実相」のご説法なら、
「人間を旅人に例えられたのは、なぜだとおっしゃったかな」
「旅人が“虎に追いかけられて逃げる”とは、何を表したのだろう」
など、具体的に尋ねて、ともに論じ合う。
昨年学徒になったNさんは、
「時間をかけて信心の沙汰をするので、しっかり復習できるんです」
と感謝する。
Bさんは、しかし、
「彼らがビデオご法話を真剣に聞こう、となるまでが大変でした」
と振り返る。
「なぜ生きる」と問いかけても、最初は、
「安定した生活が送れれば、人生の目的なんて、なくてもいいんじゃないですか」
と答える人が多かった。
親鸞会と縁があっても、生きる目的は、あまりにも大きな問題なので、すぐには自分のこととしてとらえられないのである。
「年齢が離れているのだから、まず相手を知ろう」
と、彼らが好きなゲームをやったり、インターネットにともに興じる。また、授業の内容や家族のこと、将来の夢を親身に聞いて、仲良くなった。
「やりたい研究に没頭できたら、楽しいだろうね」
「大きな会社に就職して、安定した収入を得られるようになりたいよね」
と共感しつつ、
「でもね、そういう幸福は、続くかなあ。この本を読んでみようよ」
と、高森顕徹先生の著書を一緒に拝読する。
「安定した人生を送れば目的は要らないと言っても、人生には思わぬ落とし穴がある。最後、死に直面した時には、自分の人生何だったのか、と後悔に終わってしまうんじゃないかな」
と、諸行無常の現実を切々と話す。私たちが本当に求めているのは不変の幸福であり、それこそが聖人の教えられた「摂取不捨の利益」であると、じっくり話していったのだ。
若者たちは、
「現実を直視すると、確かにそうですね。人生を甘く考えていました」
「仏法に答えがあるとは、盲点でした」
と目を丸くして、聴聞し始めている。