40年求め 親鸞聖人の教えと再会
神奈川県 Nさん
昭和5年、和歌山市に生を受けました。家は代々浄土真宗で、幼いころからよく両親と正信偈の勤行をしたものです。
敗戦目前の昭和20年7月、和歌山市は空襲で焼け野原になり、一家は叔父の家に疎開しました。叔父は隣村にも名が知れ渡るほどの熱心な真宗門徒でした。敗戦を迎え、17歳の時、近所の人から仏教書を読ませてもらい、親鸞聖人のお名前を知ったのです。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
このようなお歌をわずか9歳で詠まれた親鸞さんとは、どんな方なのか。どんな教えを説かれた人なのだろう。聖人のお名前は、胸に深く刻み込まれました。
月夜の晩に叔父は、「仏教の根幹は因果の道理、浄土真宗は親鸞聖人が開かれたのだよ」とじゅんじゅんと話をしてくれました。それ以来、叔父に連れられ、寺へ行くようになったのです。
ある晩、隣村の叔母から、
「学生さんで、親鸞聖人の教えを一生懸命お話してくださる方が来られるから、ぜひ聞きに来ないか」と誘われました。
そんな若い方がどんな話をされるのか、様々な思いを巡らせ行ってみると、詰め襟姿の学生が、割れんばかりの大きな声で仏法を説いておられたのです。その学生こそ60年前の高森顕徹先生でありました。
その後、ご縁はなく、月日だけが確実に流れ、寺の話に疑問は深まるばかりでした。
「お念仏を喜ぶ身にならせていただきましょう」というが、どうすればその身になれるのか、だれに聞いても分かりません。
ハッキリしないまま、機械技師を目指し上京したのは、23歳の時でした。大都会で忙しさに追いまくられ、40有余年が過ぎ去っていきました。時々、東京の寺を訪ね歩きましたが、私の疑問に答える僧侶はありません。頼りにしていた叔父も亡くなり、当てもなく、心は大海をさまよっておりました。
「白道燃ゆ」に導かれ
そんな時、大阪に住む従兄弟から、1冊の本が送られてきたのです。高森先生の著書『白道燃ゆ』でした。1週間、会社を休み、1回、2回と読み返して確信しました。
「知りたかった親鸞聖人の教えは、この本の中にある!」
2カ月後、その従兄弟から、東京で高森先生のご法話を案内され、参詣して驚きました。あの学生服姿の高森顕徹先生が、今も親鸞聖人の教えを説いているではありませんか。
会えた、やっと会えた。本当の仏教を教える先生にーー。うれしくて涙がこぼれておりました。
回り道をしましたが、無上仏の願心により、尊いみ教えに会わせていただきました。2000畳の親鸞会館では直接、高森先生からお聞きし、地元ではビデオご法話で毎日のようにお会いでき、心より感謝せずにおれません。
「後生の一大事、命の限り、油断あるまじき」と心を締め、光に向かって進ませていただきます。