「友よ、はらからよ」
〜親友に伝え続けた13年間〜
東京都 北山茂雄
授業中、突如入った連絡、河本君は泣きながら教室を出ていきました。
彼のお母さんが、たった今亡くなったという知らせでした。
14歳の秋のことです。
家を訪ねると優しく迎えてくださったお母さん。末期宣告から2週間、若くしてガンのために亡くなっていきました。
通夜に参列した私は、彼の落胆を今も忘れることはできません。
茨城県で育った私には2人の親友があります。
1人は河本君、もう1人は舛田君。小学校からの親友です。
クラスも部活も通学もいつも一緒。
そんな3人が、河本君のお母さんの病気を縁に、人生を語り合うようになりました。
つらい現実!必ず死なねばならぬのに、なぜ生きるのだろうと、考えずにおれなかったのです。
そして河本君は「人の命を救う医師となる」。亡くなる2週間前、お母さんと誓いを立てたのです。
生きる意味を知ることができたら、知らせ合おう。そう約束しあって、3人は別の大学に進みました。
河本君は東北の医学部へ、舛田君は神戸の大学、私は大阪の大学の門をくぐったのです。
そこで私は、親鸞聖人のみ教えに遇うことができたのです。
人生の目的は苦悩の根元、無明の闇をぶち破り、たとえ死が来ても崩れない無碍の一道の身になることだ。
生きる目的をはっきり知らされた私は、親友2人にも伝えなければと、まず舛田君に声をかけました。
「おまえはこれを伝えてくれようとしたんだな」
講座に誘い、一晩中話をしましたが、力及ばず議論は紛糾。
そのうえ、しばらく会うことができなくなりました。
「相手が仏法を聞かなければ聞くまで法施しましょう。仏法を聞くようになったなら納得するまで、納得したならば、その相手が動きだし勇ましく立ち上がるまで、重ねてお伝えしていく。そこまでいかないと真の法施とは言えません」
ここで、あきらめてはいけない。
それから舛田君に、電話でじっくり話を続けました。
そして大学2年の時、高森顕徹先生のご法話に初めて参詣。
しかし楽しい大学生活、舛田君はなかなか耳を傾けませんでした。
ところが平成13年、社会人1年目、壁にぶつかって悩む舛田君と私は再び一晩語り合いました。
そして別れ際、「これを読んでくれ」と1冊の本を手渡したのです。
やがて舛田君から連絡。
「おまえはこれを伝えてくれようとしたんだな。ありがとう」。喜びの涙とともに親鸞学徒に生まれ変わったのです。
「親鸞聖人の教えの中にこそある」
今度は、河本君に伝えたい!舛田君も立ち上がりました。
しかし彼のいる東北は遠い!
深刻な医師不足、外科医の彼に休むという言葉はない。
毎日メールで親鸞聖人のお言葉を送りました。もっと伝えたい。もどかしい。河本君が聞きに来られないなら、僕らが行こう。2人で何度も東北に足を運びました。
親鸞会結成50周年の直前。今回こそ伝え切ろう!と東北へ。
一晩語りました。
私が押せば舛田は引く、舛田が押せば私は引く。本当の友達になりたいんだ!分かってくれ河本君!
しかし河本君の答えは、
「話は分かる、だがそこまでして求めようとは思えないんだ、ごめん」。
「叫べども叫べども 声を限りと叫べども なぜにとどかぬこの六字 力とぼしきわれを悲しむ」
高森先生のお言葉が思い出され、涙がほおを伝いました。
別れ際、これだけは読んでくれ、1冊の本を手渡し東京へと戻ったのです。
ところが1年後、河本君から連絡がありました。
「あの本、何度も読んだ。人生の目的がよく分かったよ。母との誓いを果たすのも、医師として生きるのも、親鸞聖人の教えの中にこそある。舛田よ、北山よ、本当にありがとう」
今年の9月、晴れて親鸞学徒になったのであります。
振り返れば、高校卒業して13年。阿弥陀如来の大きなお力によって3人は真の法友と生まれ変わったのです。
「深い川は、静かに流れる。地道にみえる実践が、最も堅実であり、その一波が二波となり、やがて千波万波になって、無上甚深の妙法は、確実に十方衆生に浸透するでしょう」
私は進みたい。無上の道を。この素晴らしい仲間とともに、親鸞聖人の思想が世界を変えるその日まで。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)