老い・肉体という牢獄(後編)
「未来の真の明かり 伝えたい」
竹崎法子 さん
「デイサービスの日は、うれしくていつも朝早く目が覚めるのよ」
介護施設を訪れる高齢者から、よく聞かされる言葉である。
デイサービスとは日帰りの介護を指す。
自宅で暮らしながら、週に2、3度、施設へ来て介護を受ける。入浴させてもらったり、体操や手工芸、アサガオ栽培などの園芸やおやつ作りで半日を過ごす。
同じ境遇の高齢者同士、おしゃべりできるのが何よりうれしい。
職員から大事にされ、快くトイレの世話もしてもらえるので、思う存分お茶が飲めると喜ぶ人も少なくない。
「いつお迎えが来るか分からないんだから。今のうち楽しまないとね」
「そうそう、いっぱいおいしい物食べて、皆としゃべってね」
利用者たちの会話は、一見、屈託なく楽しげだが、笑顔の奥に陰りも漂う。
わが家で肩身の狭い思いをしている裏返しともいえるからだ。
「社会的なつながりも、健康も若さも失われる一方の高齢者は、この先自分がどうなるのか、皆、先が見えないんです。その心はだれも分かりませんし、分かったとして、どうしてあげようもないんです」
高齢者の抱える孤独は、若い人のそれとは異なるものと竹崎さんは語る。
本当に必要なのは未来の真の明かり
施設で行う手芸などの作業の中で、重視されているものの一つがカレンダー作りだ。
1カ月分のマス目がかかれた白い紙に、自分で日付を入れ、利用日や行事を書き込む。イラストも加え、自分だけのカレンダーができ上がる。
なぜカレンダーなのか。
福祉職員となって間もないころ、神奈川県の葉山町で職員研修を受けたことがある。50代くらいの理事長が言った。
「運動会や花見、夏祭りなどの季節行事や、外食、買い物、ドライブなどを短い周期で入れることが大事です。先の楽しみを常に与える。そうすると、そこまでは生きようという気持ちになる」
だからカレンダーを作り、予定をいっぱい入れることは、高齢者の生きがい作りに大きな効果があると力説していた。
竹崎さんは言う。
「立場上、高齢者に生きる道筋をつけるのが仕事です。それは他人の人生が自分の手の中にある感じです。『今日は楽しかった。明日もまた』と、先に希望を持たせ、明日へと向かわせる。でもそうやって生きてどこへ行くのか?どこへ連れていくのか?考えずにおれなくなるんです」
ゴールがなければ、歩き倒れしかない。高森顕徹先生から聞かせていただくとおりだった。
施設を利用する人たちは、毎年10人以上亡くなっていく。
そう遠くない未来、自分の番が来ることを、利用者は薄々感じている。
ここ数日、姿を見せなかったTさんの家から電話があった。
「先週、おばあちゃんが突然倒れて、入院させましたけどそれっきりで……」
Tさんは亡くなった。そのことを、仲良しだったグループに告げにいく。
「Tさん、お亡くなりになったそうですよ」
できるだけ優しく言うよう努めているが、一瞬、沈黙、戸惑いが見える。だがすぐに「仕方ないよねえ」という空気に変わる。
デイサービスの日程は予定どおり進み、施設内には笑い声も響く。だがその瞬間にも、目に見えぬ命の砂時計の砂が落ち続けているのを竹崎さんは感じている。
「高齢者に生きがいを、とは行政側からもよくいわれます。でもその生きがいとは、死を待つだけの耐え難い時間を、ごまかす手段でしかないのでは?と次第に思えてくるんです。本当に必要なのは未来の真の明かり——人生の目的ではないでしょうか」
すべての苦労が報われる世界
人生の決勝点を知らぬまま、この施設にたどり着く人々。
残された日々に意味がある、すべての苦労が報われる世界があると、伝えたい思いは込み上げてくる。
「仏さまはね。慈悲のかたまりなのよ。苦しんでいる人を何とか助けたいと思っていてくださるのよ」
「おばあちゃん。南無阿弥陀仏にはね、ものすごいお力があるんだよ」
その意味を知りたがった80代の老婦人には、心を込めて法を届けた。
終日、一人天井を見つめながら、静かに念仏を称える老婦人。病魔に冒され、苦痛に耐えながらも時折、目元に柔和な色を浮かべる。
人生の終幕に、一念の弥陀の救いが届くことを念じつつ、そっと耳元で「南無阿弥陀仏」と称え続けた。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)