"命は平等"ってホントなの!?
富山県 加納奈々美さん
子供のころ、母は銀行に勤めていました。耳の不自由なお客さんが来るようになり、筆談していたそうですが、 「簡単な挨拶だけでも手話ができるようになりたい」と思った母は、手話サークルに通うようになったのです。小学生の私も、母の傍らで手遊びのような感覚で手話を覚えていきました。
それをきっかけに、体に障害を持つ方のお手伝いをする、ボランティア活動をするようになりました。子供の私でも、人の役に立てたことがうれしくてなりませんでした。
しかし高学年になったころ、転機が訪れました。同じ年ごろの、ダウン症の男の子との出会いです。彼は、自分では手足を動かせず、言葉も話せず、ただ「あー、うー」と声を発するだけ。子供心に〝この子は、お母さんがご飯を与えなかったら死んでしまうんだ。何のために生きているんだろう〟と思いました。
そして、ハッとしました。
“確かにこの子は、私と同じように友達と遊んだり、勉強したり、大人になって仕事をすることはできない。みんなが思う「普通の幸せな人生」を送れない彼と、これからどんな人生でも送れる私と、命は平等といわれるのはどうしてか。なぜ、人の命は地球より重いといわれるのだろう”
疑問は、思春期になって人間関係に煩うようになると、より深刻な悩みへ変わっていきました。
ちょうどそのころ、全国的にイジメを苦にした小中学生の自殺が相次ぎました。テレビや新聞で「自殺をしてはいけない」と訴えるものの、訴えていた校長先生が自殺してしまう。命はなぜ大切か、明確な答えはありませんでした。
どんな人生を送っても最後は死んでいく。なぜ生きるかが分からねば、いつか大変な苦しみにぶつかった時、私も自殺してしまうのではないだろうか。不安が心を覆いました。
命はなぜ尊厳なのか、答えを求め、大学へ進みました。そこで待っていたのが、親鸞聖人のみ教えとの出遇いだったのです。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
多生にもあえない“弘誓の強縁”にあうために、億劫にも獲難い〝歓喜の生命〟をうるために、この命はあるのですよと、親鸞聖人は教えてくださいました。
この命は絶対の幸福になるためにあったのか!だからこそ自殺してはならないのかと、命への疑念が、みるみる解けていきました。
同時に知らされたのは、深い親の恩です。
中学生のころ、なぜ生きるかが分からず心は荒れて、素行のよくない友達ともつきあうようになった私を、ずっと心配してくれた母。大阪の大学卒業後は、地元の岡山に戻ることを心待ちにしていてくれたのに、富山での就職を決めた私に、寂しそうにしていた母。それでも、「あんたの人生なんやから、あんたの好きな道を選んだらいい」と最後はいつも私の味方をしてくれる母……。
私には5カ月になる娘がいます。娘が生まれるまでは、母に「もう子供じゃないんだから」と言っていましたが、今なら母の気持ちが分かります。ここまで守り育ててくれたからこそ、私は親鸞聖人のみ教えを知ることができました。母やわが子、そして縁のある人たちに、〝なぜ命は大切か、親鸞聖人は教えられているのですよ〟と伝えていきたいと思います。
(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)