体験話に迷わされた23年
「機相」「信相」の教導に驚く
山口県 匿名
「ものすごい衝撃でした」
23年ぶりに学徒となったTさんに、「機相と信相」(下段に詳説)のご教導を伝えた時の告白です。
「親鸞学徒の本道をゆかれるのが高森顕徹先生で、いろいろな知識(仏教の先生)はいても、ここがまさに違い目だったのですね」と、声を震わせ語ってくれました。
Tさんはかつて本会とご縁を結びながらも、悪知識(仏教を誤って説く先生)に迷いました。
ある時の講演中、自分でも驚くほど腹底から念仏が噴き上がり、それまでの胸のつかえがすべて下りるような奇異な信仰体験もしたといいます。
周りの人は「よかった、よかった」と言い、Tさんも人が変わったように明るくなりました。
いわゆる"救われた"のです。
しかし、親鸞会で教学を学んでいたこともあり、真実信心とは何か違うのではないかという思いをずっと引きずっていたといいます。
それから20数年。広島にいる別の知識の元でも話を聞くようになり、真宗十派の一つ、木辺派で得度もしました。
しかし、信仰の喜びや満足はそれなりにあっても続かず、肝心の後生の一大事の解決は、何もかも中途半端で、もうほっておけないと思い、もう一度、親鸞会の門をくぐることにしました。
「万人共通のことのみを語られている」
最初は本会と、別のグループとの二足わらじの状態でしたが、「機相と信相」について聞かれた時、やはり親鸞会しかなかった、高森先生しかおられなかったと、心定まったといいます。
「真宗では信心を表明する時、機相では語らず、信相でのみ語る」。これが真宗のイロハと教えていただきます。
『真宗史からの教訓 三業惑乱に学ぶ』にも次の教導が載っています。
いつ、どこで、どの知識の下で、どのようにして獲信したか。「こうだった」「ああだった」と、自慢げに具体的な体験談を語ることを、「機相で信心を語る」という。
「機相」とは「人間の三業」のことであり、三業は一人一人異なる。
「いつ」「どこで」「どの知識の下で」「どのようにして」などは、各人各様のものである。
親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人方は、どこにも記されていない。
「信相で語る」とは、「万人の普遍的な表現」をいう。
「万人共通のことのみを語られている」ということである。
いつの時代でも変わらぬ普遍的な説き方で、信前・信後を明らかに教えられている。これが浄土真宗の教えであり、信心である。
なぜ親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人方は、「機相(三業)」で信心を語られなかったのか。
弥陀から賜る絶対他力の信心は、「いつ」「どこで」「どのように」など各人各様の「機相(三業)」で語れるものではないからである。
「機相で語る」のは、その程度の信仰ということ。「機相」で語られる「三業安心」が、親鸞聖人と異なる「異安心」であることは明白だ。
Tさんが真摯な親鸞学徒に生まれ変わったように、このご教導を徹底するほど、人工信心、偽装信仰の者たちは追い詰められていくに違いありません。
彼らが語れるのは個人的体験であり、信相は説けないから、いずれ化けの皮がはがれていきます。
強烈に引き付け、迷わせる具体的体験談を聞くのでないぞ、古今東西の全人類が共通一味になる信心を聞き抜くのだぞ、間違ってはならぬとのご教導が、Tさんの胸を貫きました。
何もかもお見通しであったのでしょう。
信相でしか信心を表明なされなかった善知識方の卓見、深い御心に感謝せずにおれません。