親鸞聖人に順ってこそ親鸞学徒 尊ぶ根本は御名号 (2/2)
親鸞会 顕正新聞
親鸞学徒の第一歩です
富山県 増山寿子さん(83)
「80歳を過ぎて、ようやく、親鸞聖人の本当のみ教えを知りました。ひたむきに親鸞学徒の道を進みたいと思い、御本尊をまず、親鸞聖人の仰せどおりにと思ったのです」
黒部市の増山寿子さんが、御仏壇に正御本尊をお迎えしたのは平成21年1月、親鸞学徒になってすぐだった。
浄土真宗の家に育ったが、法事に行けば、「死ねばだれでも極楽」という話ばかり。「それが本当なら、早く死んだほうがいいことになる」と、反発すら感じ、昔の人が信じていた、たわいのない教えとしか思えなかった。
永年勤めた教員を退き、知人の紹介で、観音菩薩を本尊とする新興宗教を15年以上、信仰していた。「真面目に徳を積もうとする人たちに、浄土真宗より素晴らしいと思ったんです」。東京まで年に約10回、泊まりがけで通うほどだったが、教祖の交代による幹部の混乱に幻滅、きっぱりやめた。
よりどころとなる教えも知らぬまま、一生終わっていいのか?と悶々としていた時、仏教勉強会のチラシを見て黒部市民会館に参詣する。
「この世でハッキリ救われる。これが親鸞聖人の教え、本当の浄土真宗なんだと知って、びっくりしました。富山県にこんな集まりがあったとは信じられませんでした」
浄土真宗親鸞会結成50周年大会(平成20年)に参詣し、二千畳(富山県射水市の親鸞会館)に集まる若者たちの熱に驚いた。さらに、50年の軌跡を描いたビデオ上映で、高森顕徹先生が昔、重い拡声器を持たれ、布教に歩かれたことを知り、自分の人生と重ね、感慨深い思いに駆られた。
「何と遠回りしてしまったのか。もっと早く聞きたかった……」
今から自分にできることは何か。親鸞聖人の教えのとおりに進ませていただき、信心獲得の身になる以外にないと感じた。
「正御本尊をお迎えして、私の親鸞学徒の第一歩を踏み出したのだと思います」
親鸞聖人は生涯、御名号本尊
奈良県 水島義樹さん(72)
「『南無まで含めて本尊とするのであり、阿弥陀仏だけを本尊とするのではありません』と本願寺の本に書かれているのを『顕正新聞』で知りました。親鸞聖人の教えのとおりに、寺も変わってきたのならいいですね」
今年4月、御仏壇に正御本尊をお迎えした水島義樹さんは振り返る。
寺院の林立する奈良県で生まれ育ち、幼いころから仏教を身近に感じていた。
定年退職後、教えが知りたくなり、近所の寺や本願寺にも足を運んだが、南無阿弥陀仏の意味は聞けず、亡くなった人のために称えるものと思っていた。
平成18年に親鸞学徒となり、蓮如上人の『御文章』5帖目13通のお言葉
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」
に驚く。
「南無阿弥陀仏には私たちをそんな最高無上の幸せにする絶大なお力があるとは、夢にも思いませんでした」
それでも、先祖代々受け継いできた仏壇の絵像を自分の代で替えるものではないと思っていた。だが、『顕正新聞』の「真宗の正しい御本尊」についての記事に、御名号でなければならないという親鸞聖人、蓮如上人のお言葉が繰り返し明示されており、絵像に向かって勤行していることに悩むようになる。
「親鸞聖人は生涯、御名号本尊を礼拝されたのだし、蓮如上人も〝当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』〟とハッキリ教えられている。最も尊ぶべき御本尊だからこそ、教えのとおりにしなければならないと思いました」
今では毎朝、正御本尊を礼拝して一日が始まり、夕べには感謝の心で手を合わせる。
「一日も早く、弥陀より南無阿弥陀仏を賜り、往生一定(おうじょういちじょう)の身に救われたい気持ちいっぱいです」
(個人名はプライバシー保護のため、仮名にしてあります。写真はイメージです)