二種深信でひらく『歎異抄』
「『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり』と信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(一章)
この「往生をば遂ぐるなりと信じて」を、ほとんどの『歎異抄』解説本は
「弥陀の浄土へ往けると信じて」と解釈している。
例えば『歎異抄』の現役研究者でトップクラスの山崎龍明氏(武蔵野大学教授)は、
「かならず自然の浄土にうまれることができると信じて」
と意訳し、著名な哲学者・梅原猛氏は
「きっと極楽往生することができると信じて」
と訳している。
だが『歎異抄をひらく』では、「信じて」を使わず「疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり」と、
他書と一線を画する。それは、親鸞聖人が仰る「信じて」は、常識的な「信じて」とは根本的に異なるからである。
世間では、「信ずる」とは「疑わないこと」だと思われている。だが疑う余地が全くなければ、
信ずる必要は無い。「夫は男だと信じている」と言う妻はいない。
何の疑いもないことだから、「男だと知っている」と言う。
火に触れた体験がなければ、
〝皆が言うから、多分火は熱いものなのだろう〟と信ずるしかないが、火傷をした人は「火は熱いものと知っている」と断言する。
「信ずる」のは疑心があるからで、全く疑いの無いことは「知っている」と言う。
親鸞聖人の「信じて」は、「真に知んぬ」と言われ、微塵の疑いも無く〝まことだった〟と知らされたことである。これを「深信」という。
阿弥陀仏に救われると、「機」と「法」の二つに疑い晴れるから、「機法二種深信」(きほうにしゅじんしん)といわれる。
「機の深信」とは、「堕ちるに間違いなし」の真実の自己(機)がハッキリすることであり、
「法の深信」とは、「助かるに間違いなし」と阿弥陀仏の本願(法)に疑い晴れたことである。
この2つが同時に立って相続するから、「機法二種一具の深信」といわれる。
地獄一定(じごくいちじょう)と極楽一定(ごくらくいちじょう)が、どうして同時に知らされるのか、不思議としかいいようがなかろう。「弥陀の誓願不思議」と言われるゆえんである。
『歎異抄』の「信じて」は、この不可思議な二種深信のことだから、二種深信を知らねば冒頭から踏み迷う。
この二種深信一つを解説されたのが、親鸞聖人畢生の大著『教行信証』である。『教行信証』の理解無くしては、『歎異抄』は毛頭、読めないことが分かるであろう。
「信じて」の解釈一つとっても、私見を入れず、『教行信証』に説かれる二種深信から『歎異抄』を解釈されたのが『歎異抄をひらく』であることが明白になる。異論があれば『教行信証』を土俵に、根拠を挙げて、なされなければならない。
『歎異抄をひらく』ご発刊から約2年。このまま反論書が出なければ、旧来の解釈は、『教行信証』から外れた「異端」となってしまう。
どちらが異端か、今後も問われ続けられるであろう。