平生業成は親鸞聖人 唯一のメッセージ
「平生業成」は、聖人の教えすべてを表す一枚看板である。「平生」とは、生きている時。世間は僧侶といえば葬式や墓番が仕事、仏教は死んだら用事のあるものと、固く信じている。その誤解を打ち破り、今、聞かねばならぬ仏法を明らかにされた方が、親鸞聖人である。
次に「業」とは、いわば人生の大事業であり、「人間に生まれたのはこれ一つ」という、人生の目的のことである。人は生まれるが早いか、空と水しか見えぬ大海に放り出される。海に投げ込まれたら、精一杯、泳ぐしかない。
では、どこに向かって泳ぐのか。その最も大事な泳ぐ方角が、人生の目的である。2600年前、釈迦が「人生は苦なり」と道破されたように、人の一生は苦しみの連続である。生まれてから死ぬまで、絶えず苦悩が押し寄せる人生を、聖人は海に例えて「難度海」とか「生死の苦海」と仰っている。
そんな難度海に溺れ苦しむ我々は、何かにすがらなければ、生きてはいけない。夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を頼りに生きている。金や財を力にする者もあれば、地位や名誉を信じている者もある。生きるということは、何かを信じているということなのである。
だがそれらは、苦海に浮かぶ丸太や板切れのようなもの。すがった時はヤレヤレとほっとするが、やがて大きな波に襲われたら、再び海面に投げ出され、潮水のんで苦しまねばならない。四方八方眺めれば、すがった丸太に裏切られた愁嘆の声のみが聞こえる。
結婚したと喜んでいても、生き別れや死に別れもあろう。過日、飲酒運転の車に衝突され、家族4人が死亡、1人が重体という悲惨な事故があった。健康を頼りにしていても、ホクロと思っていたら皮膚ガンだったということもあるから、安心はできない。
何を手に入れても不安で、限りなく苦しみ続けるすべての人を救わんと、阿弥陀仏が絶対に裏切られぬ大船を造ってくだされたことを、聖人は『教行信証』冒頭に、
「難思の弘誓は難度海を度する大船」
と喝破されている。 この大船に乗ずれば、現在から大安心に生かされ、来世は必ず弥陀の浄土へ往生することができる。この大船に乗ることこそ、聖人が「業」と言われた、人生の目的なのである。
「業成」の「成」は、人生の目的を達成したことであり、大船に乗じたことをいう。それは死んだ後ではない、平生「生きている時」のことである。
「生きている時」と聞くと、あと20年も30年もあるように感じられるが、寝ている間に熱中症で死ねば、明日からはもう後生だ。1時間後に暴走車が突っ込んでくるやら、1分後に発作が起きるやら分からない。「平生」といっても、吸う息、吐く息の「今」しかないのだ。
だから弥陀は、一寸先に後生が迫る短命な全人類を漏らさず救うために、「時尅の極促」の一念で大船に乗せ、人生の目的を果たさせると誓われているのである。
弥陀の誓願どおり平生業成の身になるまでは、聴聞の一本道である。「私一人がための大船だった」と知らされる一念まで、もたもたせずに聞き抜きなさいよ。聖人90年のメッセージは、これ以外なかったのである。