「聴聞に極まる」では頼りない心
阿弥陀仏は、「どんな人も 必ず 絶対の幸福に助ける」と命を懸けてお約束なされている。ではどうすれば絶対の幸福に救われるのか。阿弥陀仏は「聞く一つで救う」と約束されているとお釈迦さまは明かされている。親鸞聖人も蓮如上人も、善知識方は一貫して 「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。
だが、どれだけ根拠を挙げられても、「この世で無上の幸せになるのに、本当に聞く一つでいいのだろうか?」と頼りない気がするのが実態ではなかろうか。
そんな私たちに少しでも分からせようと、親鸞聖人が仏の化身と仰がれる善導大師は、二河白道の譬えで教示されている。
「二河」とは火の河と水の河。その間に「白道」が向こう岸(彼岸)へと延びている。彼岸は極楽浄土、此岸は、私たちの住む娑婆世界である。
この世のどんな道も「死ぬまで求道」だから、苦しみに終わりはない。やがて必ず死ぬ時が来る。いつまでも此岸にはいられないのだから、釈迦は「彼岸に向かって白道を行け」と勧められる。「白道を行く」とは、「阿弥陀仏の本願を聞く」ことである。
ところが白道(聞法心)の幅は、四五寸と極めて細い。そのうえ、水の河と火の河の波が逆巻いて、常に白道を覆い隠してしまう。水の河とは欲の心である。私たちは欲の塊だから、順境には欲に溺れて仏法が聞けない。欲が邪魔されると腹が立ち、逆境には怒りの炎が、白道を焼き払う。
進めば進むほど、水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも、果たして白道は向こう岸まで届いているのか、どうかも分からないから、「本当に聞く一つでいいのだろうか」と、善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。
そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。水火の波が細い白道を覆い隠す不安な時に、群賊が現れるから、なかなか仏法は聞けなくなるのである。
その中を、此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。その弥陀の呼び声が聞こえた一念に、私たちは絶対の幸福に救われるのである。絶対の幸福に救われれば、水火の二河はそのまま煩悩即菩提と転じて、浄土へ向かう明るい白道となるのだ。
この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。頼りない気がするのは、いまだ弥陀の本願を聞信していない証だから、水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと、善導大師は教導されているのである。