火急の一大事と解決の道
親鸞聖人のみ教えは仏教以外にありません。それは常の仰せ、「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」から明らかです。
「親鸞は決して、新説を広めているのではない。釈迦如来の教えを、我も信じ、皆さんにも伝えているだけなのだ」と確言されています。
では釈迦一代の教えは何でしょうか。仏教は、全人類に後生の一大事のあることと、その解決一つを説かれたものです。「後生」とは、死んだ後のことをいいます。たとえワクチンでコロナ感染を防いでも、死を免れることはできません。後生は古今東西、全ての人の行き先です。
その後生に、取り返しのつかない一大事が引き起こると、釈迦は警鐘乱打されました。それは7、80年の寿命とは比較にならない、長期の苦しみです。そんな大苦悩を受けねばならぬ理由を、釈迦は『大無量寿経』にこう説諭されます。
心常念悪……心常に悪を念じ
口常言悪……口常に悪を言い
身常行悪……身常に悪を行じ
曽無一善……曽て一善無し
私たちは心と口と体の3つで行いをしますが、まず「心」を問題にされています。それは、口や体を動かすのは心であり、最も責任が重いのは心だからです。ゆえに仏教では、たとえ体で殺さなくても、「アイツ邪魔だ、死んでくれたら」と思う罪は、手にかけるより重いと説かれます。
心中を洗いざらい、誰が言えましょう。都合のよい時は親に感謝できても、いざ介護が必要になったら、ゾッとする心が浮かんでこないでしょうか。自己中心の欲や怒りで、とても他人に言えぬ醜悪なことを思い続けの実態を、仏さまは「心常に悪を念じ」と道破されているのです。
心が悪ばかり思っているのですから、口で言うことも常に悪になります。相手を褒める時でさえ、本心では自分が上とほくそえんだり、おだてておけば役に立つと計算してのことですから、不正直な偽善です。本音と発言が異なり、念ずることにも言っていることにも真実が無いことを、釈迦は「心口各異 言念無実」と暴露されています。
心も口も体も悪の造り通しで、一つの善もできない真実の自己を照らし出された親鸞聖人は、
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
(歎異抄)
と告白されています。
無論これは聖人だけのことではありません。万人の偽らざる実相です。一大事を一大事とも思わず、自ら火口に飛び込もうとしている私たちを助けてくださる方は、阿弥陀仏しかおられません。ですから弥陀一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよと指授する
一向専念無量寿仏
こそ、仏教の結論であり、親鸞学徒の生きる道なのです。