苦海の人生に大船あり
人は、なぜ生きるのか。
これ一つ明らかになされた方が、親鸞聖人です。聖人は人生を荒波の絶えない海に例えられ、「難度海」と言われています。
人は生まれると同時に、空と水しか見えぬ大海原に投げ出されたようなものです。海に放り込まれたら、誰でも一生懸命泳ぐしかありません。ここで「泳ぐ」とは、「生きる」ことです。
闇雲に泳いでも疲れるだけですから、近くに浮いている丸太に向かいます。この丸太とは、「生き甲斐」です。
人は皆、何かを頼りにし、明かりにしなければ生きてはいけません。子供の成長、温かい家庭、仕事の成功、友人との旅行、晩酌、スポーツ等々。それらは生活に必要であり大事なものですが、それらが浮いている丸太といわれるのは、いつどうなるか分からぬものだからです。
夫や妻、パートナーを頼りにしていても、心変わりもあれば、死別もあります。愛していた子供も、成長すれば思い通りにはならず、やがて離れていきます。地位も名声も、一時の輝き。老後の備えも騙し取られたり、災害で家を失い、病で自由を奪われたり、人生の荒波は次々に押し寄せます。
そしてやがて死を迎えるのだと、蓮如上人はこう諭されています。
まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ(御文章)
日本史上、際立った成功者といえば秀吉でしょう。5兆円の建設費で造られた大坂城に君臨し、栄華を極めましたが、最期の言葉は「難波のことも夢のまた夢」の嘆息でした。次の天下人の家康も、「死ぬまで重荷は下ろせず、苦しみの人生だった」と述懐しています。天下統一でさえも一時の丸太に過ぎぬという証しでしょう。
親鸞聖人が、「万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」(歎異抄)と断言されているように、頼りになるものは、この世に一つもないのです。
そんな絶望の海に漂う私たちに、大宇宙の仏方の師である阿弥陀仏は、「必ず無上の幸福に救う」と命を懸けて誓われています。その「弥陀の誓願」を親鸞聖人は、人生の難度海を明るく浄土まで渡してくださる「大船」だと明言されています。(『教行信証』冒頭)
その難度海を渡す大船に一念で乗船させていただき、無碍の幸せに救い摂られた時、「よくぞ人間に生まれたものぞ」の生命の大歓喜に感泣し、「この身になるための人生であった」と、「なぜ生きる」の答えがハッキリするのです。
今年は、祖師聖人ご生誕850年。聖人の鮮明になされた「人生の目的」を全人類にお伝えする以上の、私たちの喜びはありません。
(R5.9.1)