信ずる心も与えて救う弥陀の大慈悲
朝晩の『正信偈』勤行で、導師が一段と声をあげて拝誦するのが
「善導独明仏正意」
の1行です。
善導とは、今から1400年前、中国仏教の全盛期といわれる唐の時代の善導大師のことです。当時、天台、浄影、嘉祥ら、ともに一宗一派を開いた諸師を輩出しましたが、仏の正意を明らかにされたのは善導大師ただ一人であったと、親鸞聖人は絶賛されています。
仏の正意とは、お釈迦さまの正しい教えのことですが、それは南無阿弥陀仏の六字に収まります。
「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」と蓮如上人は仰っています。
この南無阿弥陀仏を、聖道諸師は「唯願無行」と解釈し、凡夫が「助けてください」と願ずるのみで、この世で助ける力(行)はないと主張しました。そこに善導大師が登場され、「南無阿弥陀仏には、弥陀の願行が具足しているから、この名号、南無阿弥陀仏を賜れば、どんな者も、この世は絶対の幸福に生かされ、死ねば必ず往生できるのだ」と仏の正意を開顕なされました。それが、以下の古今楷定の六字釈です。
「南無というは帰命なり、またこれ発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち其の行なり、この義をもっての故に、必ず往生を得る」
阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を、「信ずる心も念ずる心もない」煩悩具足の極悪人と見抜かれています。そんな十方衆生に、「我を信じよ、助けよう」といくら仰っても、弥陀を信ずる心も念ずる心もない我々は助かりようがありません。
かくて阿弥陀仏は、五劫の間(※)、熟慮を重ねられ、兆載永劫という長期にわたって想像を絶するご修行をなされた末に、信ずる心(願)を「南無」の二字におさめ、絶対の幸福に救う力(行)のある「阿弥陀仏」の四字と一体にした、願行具足の南無阿弥陀仏を成就なされたのです。
この六字の名号を十方衆生に与えて、必ず往生を得る身、絶対の幸福に救うのが、弥陀の目的なのです。
どんな宗教でも、我々には信ずる心くらいはある、というのが大前提となっています。ですが、不実の心で信じられるのは不実のものでしかありません。真実のかけらもない、煩悩具足の我々には、まことの阿弥陀仏を信ずることは全く不可能なのです。
ゆえに阿弥陀仏は、「この名号をそのまま受け取ってくれよ」と、今もお呼びづめなのです。
南無阿弥陀仏の名号を聞信した一念に、どんな人でも差別なく、浄土往生間違いなしの絶対の幸福になれるのです。なんという透徹した深いお慈悲でしょうか。
私たちが根本に尊ぶべきは、「南無阿弥陀仏」の御名号です。だからこそ親鸞聖人も蓮如上人も、常に、名号を御本尊となされていたのです。
※1劫 …… 仏教で4億3千2百万年をあらわす