人類最大の問い「人間とは何か」
エジプトの砂漠のスフィンクスは、旅人にこう問いかけます。
「始めは4本足、中ごろ2足となり、最後は3足となる動物は何か」
人間に向かって、「人間とは何ぞや」と問うて、答えられぬ者を、食い殺したといいます。
古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」は、かのソクラテスが、真理探究の出発点とした言葉として有名です。
この謎を解明せんとして、哲学や宗教が生まれ、政治、経済、科学、医学、文学、芸術など、一切の人間の営みが生まれました。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、18歳の時、兄への手紙にこう書いています。
「人間は謎です。その謎を解かねばならない。その解明にたとえ一生を費やしたとしても、悔いはありません」
文学の最高峰といわれる彼の著作は、その努力の精華でありましょう。
フランスの画家ゴーギャンの最高傑作のタイトルは、
「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」。
これこそが、人類最大の謎なのです。
一人ひとり、この厳粛な問いに答えなければなりません。代弁も、受け売りの知識も通用しません。
ところが、最も分からないのが、この自分自身なのです。
「目、目を見ること能わず。刀、刀を切ること能わず」
正宗の名刀でも、名刀自身を斬ることはできないように、我々は何万光年先の宇宙は知りえても、自分自身のことは皆目分かりません。近すぎるからです。
最も大事な「己自身」に不明では、真の幸福になれるはずがないでしょう。
親鸞聖人は、古今東西の人間の実相を『歎異抄』にこう喝破されています。
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実あることなし」
火のついた家のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない、と。
そんな人生なら絶望しかないではないか、何のために生まれてきたのだ、と問わずにおれぬ私たちに、聖人はこう仰います。
「ただ弥陀の本願のみぞ、まこと」。その本願(お約束)は、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」
であると。欲や怒りの煩悩が激しく燃えている我々を目当てに、弥陀は「どんな極悪人も必ず絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土に往生させる」と誓われています。
そらごと・たわごとの世にあって、弥陀の本願こそが、人類救済の唯一の光明であり、この真実を明らかにされたのが、高森先生著『歎異抄をひらく』なのです。