浄土真宗を覆う十劫安心
現今の浄土真宗の99・9パーセントは十劫安心の異安心といわれます。
「門徒もの知らず」と揶揄される無知な人ばかりではありません。相当の学者でも、自覚なしに十劫安心に陥っているのです。
安心とは信心のことです。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、この三方の信心は一味ですから、これら善知識方の信心と異なるものを異安心といいます。
十劫安心とは、阿弥陀仏が名号を完成してくだされた十劫の昔に、我々はすでに助かってしまっているのだから、今さら求めることも聞き歩くこともいらぬ、という人たちのことです。
名号とは南無阿弥陀仏の六字をいいます。六字の名号には、我々の苦悩の根元である無明の闇を破り、無上の幸福に救い摂る破闇満願の働きがあります。
親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃仰され、蓮如上人は平易に、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり
と仰っています。
この名号大功徳が、あまりにも広大無辺だからでしょう。難病の特効薬ができ上がったのを、病気の治ったことと早合点した間違いが十劫安心なのです。ですが薬ができていても、飲まねば病気は治りません。当然のことです。ですから蓮如上人は『御文章』に、十劫安心を繰り返し破邪なされています。
「十劫正覚の初より、我らが往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、即ち信心のすがたなり」といえり。これさらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし(2帖目11通)
他力の信心(南無阿弥陀仏)を獲得しなければ、誰一人、弥陀の浄土へは往けないのです。
十劫安心の人が、よく使う言葉を挙げておきましょう。
「阿弥陀さまの御心は、南無阿弥陀仏となって、今ここに届いてくだされている」
親鸞学徒は、こう切り返します。
「では、届く前と、届いた後とで、何がどう変わりましたか」
十劫安心は、これに答えられません。腹底では助かっていると思い込んでいますから、届く前(信前)と届いた後(信後)の水際が説けないのです。すなわち真宗の肝要である信の一念が抜けているのです。
タノム一念のとき、往生一定・御たすけ治定(領解文)
弥陀の救いは、今ハッキリします。
平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念(おもい)に住せばかなうべからず(執持鈔)
ハッキリしない信心は、断じて他力の信心ではありません。私たち親鸞学徒は、一念の抜けた十劫安心の誤りを正して、親鸞聖人が明らかにされた往生一定の他力金剛心を、多くの方にお伝えしたいと思っています。
(R4.10.1)