釈迦と「弥陀の本願」
仏(如来)といえば、釈迦仏も大日如来も薬師如来も、名前が違うだけで、どれも同じ仏さまだと思っている人がありますが、大間違いです。
特に、釈迦仏と阿弥陀仏との違いをハッキリ知らなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、全く分からないことになります。
釈迦は、今から2600年前、北インドに生を受けました。ゴータマ・シッタルタといい、カピラ城主・浄飯王の長子として、将来の地位は約束され、何不自由のない生活をされていました。
学問、武芸、ともに優れ、ヤショダラという美しい妻をめとり、ラーゴーラという子をもうけ、しかも春夏秋冬、四季の御殿で500人の美女と戯れ、快楽の限りを尽くしました。
およそ我々が、一つでもあればと、必死に求めている幸せを、太子は全て持っておられたのです。
だが、一向に満足できない自己の魂に驚いて、29歳2月8日の深夜、それら一切を投げ捨てて、入山学道なされています。
父王の命令で連れ戻しに来た憍陳如たちが、涙ながらに帰城を懇願した時、太子は厳然とこう言われています。
「お前たちには分からないのか。あの激しい無常の嵐が、まだ分からないのか。ものは皆、常住しないのだ。いずれの日にか衰え、いずれの日にか滅ぶのだ。快楽の陰にも無常の響きがこもっている。美女の奏する弦歌は、欲をもって人を惑わすのみだ。三界は悩みのみ、猛き火のごとく、浮かべる雲のごとく、幻や水泡のごとし。若きを愛すれど、やがて老いと病と死のために壊れ去るのだ」
まさに太子の求めたものは、老・病・死にも壊れぬ幸せであり、その決意は不動でありました。
かくて6年に及ぶ厳しい修行の末に、35歳12月8日未明、一見明星して大悟徹底、ついに仏陀となられたのです。
以来80歳2月15日に入滅されるまで、仏陀・釈迦が真の幸福を説き明かされた教えが、仏教です。
その釈迦の教法の全ては、七千余巻の一切経となって現存します。それを幾たびも読破された親鸞聖人は、「釈迦の教えはただ一つ、弥陀の本願であった」と断定されています。
弥陀とは、十方諸仏(大宇宙の無量の仏方)の本師本仏と仰がれる阿弥陀仏のことです。地球上で唯一の仏である釈迦も、阿弥陀仏のお弟子です。ゆえに師である弥陀の本願(約束)を説くことが、釈迦の出世本懐であったのです。
弥陀は、「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」と誓われています。
大海は芥を択ばず。弥陀の救いに差別は一切ありません。
弥陀の本願は、老・病・死のあるままで、万人を絶対の幸福に生かす無上の大法なのです。