一心に弥陀に帰命せよ
天災は忘れた頃にやってくる、と言いますが、近年は、記憶も鮮明なうちに新たな災害が頻発しています。
「数十年に一度」のはずの大雨特別警報級の豪雨が、毎年発生し、今年も、熱海の土石流被害の実態も分からぬうちに、各地で集中豪雨が相次ぎました。
まさに人生は、苦難、困難、災難の荒波の絶えない難度の海だと、親鸞聖人が仰る通りです。
ですが、そんな難度の海を明るく楽しく渡す大船があると、聖人は断言されています。
この大船は、難度の海に苦しむ私たちを乗せて絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土まで渡すために、阿弥陀仏の本願によって造られた船です。ですから親鸞聖人は、大悲の願船と仰っています。
釈迦の出世本懐は唯一つ、この阿弥陀仏の本願を説かんがためでありました。釈迦の教法をそのまま伝えられた聖人も、弥陀の本願の開顕一つに90年の生涯を捧げられています。
ところが私たちには、悲しいことに、この大悲の願船を見る眼もなければ、「早く乗ってくれよ」と必死に呼び続けられる船長(阿弥陀仏)の御声を聞く耳もありません。金だ、出世だ、名誉だと、朝から晩まで駆けずり回り、最近はSNSの発達で、自分の趣味や生きがい、私生活を公開し、多くの人に認められたいという承認欲求の強い人が目立っています。
認められれば、もっともっととのめり込み、認められなければ腹が立つ。自分より勝る者には、ねたみそねみの心でストレス過多になる。どこまでいっても安心も満足もありません。煩悩具足の実態は、古今東西変わらないのです。
そんな私たちと見抜かれた阿弥陀仏は、そんな者を、そのまま乗せて、必ず弥陀の浄土まで渡す大船を造ったのだよ、と仰せです。
この阿弥陀仏の大慈悲によって、大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。
死んでからではありません。それは平生、ただ今のことです。生きている今、弥陀の本願を聞く一念に大船に乗せていただき、浄土往生一定の絶対の幸福になることを、「平生業成」と親鸞聖人は教導されています。
私たちは、この平生業成の身になるために、この世に生まれてきたのです。ゆえに、一切の自力の計らいを捨てて、一心に弥陀に帰命することが肝要なのです。
本願に疑い晴れた聞即信の一念に阿弥陀仏は、煩悩あるがままで浄土往生間違いない身に救ってくださいます。その慶喜を親鸞聖人は、
超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身(煩悩で汚れたこの身)は変わらねど
心は浄土に遊ぶなり
と和讃なされているのです。