真宗の極致
「自力を捨てて他力に帰する」
浄土真宗・親鸞聖人のみ教えは、これ以外にないと、覚如上人は喝破されています。
「真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする」(改邪鈔)
「極致」とは、これ以上ない大事な教えをいいます。では、親鸞聖人が捨てよと言明される「自力」とは何か、帰せよと仰る「他力」とは何でしょうか。
世間一般には、「自力で脱出した」「自力で家を建てた」など、自分の力を「自力」と言っていますが、そんな自力を捨てたら、腑抜けになって生きていけなくなってしまいます。
また、自分以外の力を「他力」と思って、「人の褌で相撲を取る」ことや他人依存を「他力」と考えているのも大間違いです。
自力、他力の語源は仏教であり、親鸞聖人の教えの最も重要な仏語ですから、その誤解は全人類の不幸です。
「自力」とは、弥陀の本願を疑っている心(疑情)のことです。
弥陀の本願とは、阿弥陀仏が、「すべての人の後生暗い心を破る」と、命懸けで誓われたお約束のことであり、それを疑っている心だけを自力というのです。これを、無明の闇ともいいます。
無明の闇とは、「死ねばどうなるか分からぬ心」であり、「旅立つ先がハッキリしない心」です。
死は万人の未来です。確実な未来が暗いと、現在も暗くなります。人生を暗くする元凶が、無明の闇(後生暗い心)なのです。
この無明の闇がある限り、どんなに科学や医学や学問が進歩しても、人間の苦悩は断ち切れません。
「他力」とは、無明の闇を破する弥陀の不可思議の願力のみを言い、自力の心(疑情)を斬り捨てて、極楽往生をハッキリさせてくださる力です。
ゆえに自力の心(疑情)がある間は、無明の闇(後生暗い心)はなくならず、他力(弥陀の本願力)によって、自力(疑情)が斬り捨てられた一念に、死後の極楽往生がハッキリするから、無明の闇(後生暗い心)が消滅するのです。
「弥陀の本願、まことだった」と他力に帰した一念に、自力(疑情)と無明の闇(後生暗い心)とは、同時になくなるのです。
また、悪い心を何とか善い心にして、後生助かろうとする心も自力です。
なぜなら弥陀は、すべての人間を一生造悪、極重の悪人と見抜かれ、「そのままで、必ず極楽往生をハッキリさせる」と誓われているのに、それを疑っているからです。
この自力(疑情)一つが、生死流転の本源(※)です。自力を捨てて他力に帰し、往生一定の絶対の幸福になることこそが、人生出世の本懐(人として生まれてきた目的)なのです。
※生死流転の本源……生死生死を繰り返して迷いの世界から離れることのできない根本原因