「後生が一大事と思えない」という人へ
アメリカで、遺伝子操作したブタの心臓を人に移植した、と報じられました。「成功の可能性は低いと分かっていたが、死ぬか、この移植を受けるか、どちらかだった」と本人は手術を受け入れたといいます。
秦の始皇帝は、不老不死の薬を求めて日本まで遣いを出し、エジプトのファラオは、再び目覚めることを信じて肉体をミイラにし、目覚めた時に使う金銀財宝を墓に入れた、といわれます。
現代でも、世界的なIT企業グーグルが、不老長寿の薬の開発に挑戦しています。老化を食い止め、500歳まで生きようという研究です。古今東西、人間誰しも、死にたくはないのです。
命あるものにとって死ぬほどの一大事はありませんから、ノミや虫けらでも必死に逃げ回ります。
100万円盗られてさえ一大事と騒ぐのに、死は、家族も財産も、大切なもの全てを奪い去っていきます。それを一大事と思わないのなら、家が焼けても、全財産盗まれても一大事と思わないことになります。
死なんか怖いものかと思っていた兵士が戦場に行った。ところが、実弾がビュンビュン頭をかすめ、戦友が血だらけで死ぬのを見て、震え上がって塹壕(ざんごう)から頭を出せなかったといいます。
想像している死と、実際の死とは、全く違うのです。
それは、動物園で見ている虎と、山中で出くわした虎ほどの違いがあります。檻の中の虎には、襲われる心配はありませんが、山中で突如出会った猛虎にはひとたまりもありません。
他人の死は眺めておれますが、眼前に迫った自己の死には恐怖で戦慄するしかないのです。
生きるとは、そんな死との戦いです。生まれた以上は逃げられません。
肉体は、必ず朽ちます。死ねば後生です。死んだらどうなるのかと誰しも考えます。何もなくなるか、何か残るのか、考えてもはっきりしません。その「死後が暗い心」を仏教では無明の闇といわれます。
大阪の心療内科クリニックが放火され、25人も死亡したと聞くと、恐ろしさに震えますが、大概はそれも一過性で、あとはケロッとしています。
しかし、仏縁のある幸せな人は、この死後が暗い心を捨ててはおけません。何をさておいてもハッキリさせたいと聞法に打ち込みます。
今晩死んだらどうなるか、と問い詰めれば、後生は真っ暗がり。この深刻な無常観から、真剣な聞法に一層拍車がかかるのです。
弥陀の誓願を聞きひらいた一念、いつ死んでも浄土往生間違いなしの無上の幸福に生かされ、「人間に生まれてよかった」の生命の大歓喜を味わうことができるのです。
これこそ、人生出世の本懐です。
(R4.2.1)