今日が聞法、最後の日
「仏法は聴聞に極まる」と言われるように、弥陀の救いは聞く一つです。その「聞く」とは、何をどこまで聞くことか、親鸞聖人はこう説かれています。
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)
“「聞」とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末を聞いてツユチリほどの疑心もなくなったことをいう”
仏法を聞くとは、「仏願の生起・本末」を聞くことだと道破されています。
まず「仏願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。その「生起」とは、「どんな者のために、弥陀は本願を建てられたのか」。「本末」とは、弥陀が私たちを救おうとされるご苦労の始終です。
この仏願の生起本末に、永久に疑い晴れた一念に、絶対の幸福に救い摂られるのです。
約束には必ず相手があります。弥陀はどんな者を相手に本願を建立されたのか、「生起」を聞かなければなりません。それについて親鸞聖人は『歎異抄』で、「火宅無常の世界」に生きている、「煩悩具足の凡夫」を助けるために建てられた本願だと明かされています。
「火宅無常の世界」とは、いつ何が起こるか分からない、不安に覆われた世界を、火のついた家に例えられたものです。平成23年、東北地方を千年に一度の大地震が襲いました。その復興も終わらぬうち、今度は新型ウイルスが百年に一度の世界的大流行となりました。これから幾千の危機を乗り越えようと、人類に安息は訪れないでしょう。
たとえワクチンで感染を免れても、死を免れることはできません。しかもそれは明日、いや今日かもしれないのです。これこそ、最も恐ろしい無常です。
タクシーの運転手が意識を失い、歩道で6人をはね、40代の女性が亡くなっています。冬場の浴室でのショック死は、交通事故死の4倍です。
昨年の3月、日本を代表するコメディアンがコロナの犠牲になった時は、全国に衝撃が走りました。昨年12月には50代の国会議員が、前日まで元気だったのに急死し、コロナ感染であったと判明しました。それらのニュースに一時は驚いても、ケロリと忘れ、自分はまだまだ大丈夫と油断しています。
そして日がな一日、考えているのは、どうすれば儲かるか、出世できるか、褒められるか、楽に生きられるかです。その欲を邪魔する者は、怒りの炎で焼き払います。嫌いな人が苦しむのを喜ぶ蛇蝎の心は、どんな人にも潜んでいます。
欲や怒りにまみれた煩悩具足の極悪人が私だったと知らされ、そんな者をそのまま救う本願だったと疑い晴れるまで、聞き抜くのです。