たとえコロナを克服しても……
新型コロナの大波に、世界が翻弄されています。
5月27日時点で死者は35万を超えました。誰もがウイルスを恐れて、人との接触を避け、マスク着用が常態となりました。不要不急の楽しみを減らしてでも、死にたくはないからでしょう。
しかし経済活動が止まると生きてはいけませんから、第2波の襲来におびえながらも、徐々に再開せざるを得ません。
テレワーク(自宅勤務)やオンライン会議が推奨され、買い物や娯楽、スポーツでも、密集、密閉、密接を回避する「新しい生活様式」が提唱されています。
「いかに生き延びるか」
人類の全知全能は、ここ一つに集中していると言えましょう。死を遠ざけようと、「新しい生き方」を必死に模索しているのですが、いつまで逃げ切れるのでしょうか。
500年前、蓮如上人の時代も、疫病が蔓延して多くの人が亡くなりました。その時、蓮師はこう仰っています。
疫病ではじめて死ぬのではない。生まれたから死ぬのだ。病は死の縁であっても因ではないのだよ、と。
「当時このごろ事のほかに疫癘とて人死去す。これ更に疫癘によりて、はじめて死するには非ず。生れはじめしよりして定まれる定業なり」
(御文章4帖目9通)
コロナを克服しても、人が死ぬことに変わりはありません。やがて滅びることを知りながら、生き延びることのみの営みに、真の希望はあるでしょうか。
確実な未来である後生(死後)が暗いままで、明るい生はありえません。この生死の一大事の解決こそが、人類喫緊の大問題なのです。
ゆえに蓮如上人は続けて、大宇宙最尊の阿弥陀仏が、「どんなに罪業深重の者でも、一心に我をたのめ。必ず絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土に往生させる」と誓われていると、明示されています。
そして、こう断言なされています。
「かかる時は、いよいよ阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、極楽に往生すべしと思いとりて、一向一心に弥陀を尊きことと疑う心、露塵ほども持つまじきことなり」
この弥陀の誓願(お約束)を聞信し、露塵ほどの疑いもない身になりなさい、必ず浄土往生できる、ということです。
弥陀の浄土を、無量光明土ともいいます。未来が「限りなく明るい世界」とハッキリすれば、現在が絶対の幸福に生かされます。
「仏法は聴聞に極まる」
「生き方」がどう変わろうとも、「生きる目的」は唯一不変です。
絶対の幸福と、浄土往生を果たすには、弥陀の本願を聞く一つなのです。