弥陀は何に命を懸けられたのか
阿弥陀仏の本願は、どんなお約束でしょうか。親鸞聖人は一言で、「若不生者のちかい」だと道破されています。漢字36文字の本願に、
若不生者不取正覚
(若し生れずは正覚を取らじ)
と仰せになっているからです。
「正覚」とは、仏教に説かれるさとりの中で、最高の位です。ゆえに「正覚」は仏の命です。
「若し生れずは正覚を取らじ」とは、「もし約束を果たせねば、命を捨てる」ということですから、その意味は極めて重いのです。この弥陀の命懸けの誓願を、聖人が「若不生者のちかい」と名づけられたのも、うなずけるでしょう。
では弥陀は、何に身命を賭しておられるのでしょうか。聖人は簡明に、我々を「信楽」にすると教示されています。本願の御心を明らかにするには、通常は36文字すべて解説しなければなりません。それを聖人は、「信楽」の2字で、弥陀の本願は「信楽にしてみせる」というお誓いだと喝破されています。親鸞聖人ならではの達見であり、弥陀のご化身と拝さずにおれません。
『大無量寿経』に漢字ばかりで書かれている弥陀の本願を、聖人はご和讃で
若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ
(浄土和讃)
と、平易に説かれています。
「必ず信楽にしてみせると、弥陀が命を懸けて誓われているから、信楽になる時が必ず来る」のだとの断言です。こんな短い言葉で、本願の御心を余すところなく鮮明にされているのですから、驚くほかありません。
俄然、問題になるのはその「信楽」の意味です。「信」とは死後の行き先がハッキリした後生明るい心であり、「楽」は「人間に生まれて良かった」と大満足する心をいいます。ゆえに「信楽」とは、「私ほどの幸せな者はない」と喜べる「最高無上の幸福」です。
だから「一念慶喜する」と続けられています。弥陀の救いは決して、いつとはなしではありません。「一念」という何億分の1秒よりも短い時間の極まりです。幾億兆年の過去世にもなかった、喜びの中の喜びが一念で起きるから、「一念慶喜」と言われているのです。
そうなった人は、間違いなく浄土に往ける身になることを、「往生かならずさだまりぬ」と明言されています。
すべての人を浄土往生させるために、信楽に命を懸けられた弥陀の本願、聞く者もまた、火中突破の覚悟でなければなりません。
(R4.11.15)