人を呪わば不幸は2倍 イラ立ちを消す釈迦の法
なぜ私だけ、こんな目に。泣きたい時は仏説を思い出しましょう。お釈迦さまは、自分に現れる幸・不幸の全ては、自分の行為が生み出したもの、と解明されています。これが仏教の根幹「因果の道理」です。
○善因善果……善い種を蒔けば、幸福という善い結果が現れる。
○悪因悪果……悪い種を蒔けば、不幸や災難という悪い結果が現れる。
○自因自果……自分の蒔いた種の結果は、自分が刈り取らねばならぬ。
勉強もスポーツも、努力の成果は励んだ本人が手にします。リハビリがつらいからと、誰かに交代してもらっても意味がありません。自分の運命は全て自業自得、己の行いが造り出したものなのです。
この因果の道理が分かれば、善果が現れた時は、「どんな悪果を受けても文句の言えない私が、こんなに恵まれるのは仏祖のご加護」と感謝し、より努力せずにおれなくなります。
ところが仏法を聞いていない人は、学校の成績が良かったり、職場で出世したりしても、それは自分が人一倍、苦労したからであって、当然の結果と見なしがちです。だから心からの感謝は起きないし、もっと評価されるべきだと、不満さえ出てくるでしょう。
このように自惚れ強く、善い種を蒔いているつもりの私たちは、不幸や災難に遭うと、自分が悪い行為をした結果だとは、とても認められません。ですから他人を悪者にして、「アイツが、あんなことをしたせいだ」「コイツさえ、余計なことを言わなければ」と責任転嫁します。噴き上がる恨みと憎悪に焼かれ、いつまでも苦しまねばならないのです。
ですが、まいた種は必ず生えるし、まかぬ種は絶対に生えません。この宇宙の真理をよく聞いて理解した仏法者は、逆境に遭えば、過去の恐ろしい罪の結果と知らされますから、「悪いのは私だ」と懺悔します。スッキリ前向きな心で、二度と悪い種を蒔かぬよう努力向上するのです。
なぜ自分に不幸が押し寄せるのか、承服できないこともあるでしょう。しかしそれは、過去の種蒔きを忘れているだけです。私たちは、3日前の昼食を思い出せるでしょうか。10年前の今頃、何をしていたか覚えている人はないでしょう。
仏教では、この肉体が生まれる前から、永遠の生命が続いていると明かされています。そこには造りと造った、幾億兆年の種蒔きが納まっているのです。
人間の脳は、せいぜい数十年前のことしか記憶していないのですから、「私が、こんな悪果を受ける筋合いはない」と抗議してしまうのです。
仏教の本(もと)である因果の道理が分からずして、末まで聞き開けましょうか。真剣な聞法に身を沈めましょう。
(R4.1.15)