なぜ仏教は、万人の嫌う死を強調するのか
仏法は、後生の一大事に始まり、後生の一大事の解決で終わります。後生の一大事が分からないと、仏法は何十年聞いても分からないのです。
ですから蓮如上人は「後生の一大事を心にかけて」仏法を聞け、と仰っています。
では、後生の一大事とは、どういうことなのでしょうか。
後生とは、後に生まれる、と書くから、死後のことです。
生ある者は必ず死に帰す。「上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり」(御文章)で、死は万人が避けられません。
ですが、誰もが死を嫌います。聞きたくない、考えたくもないことです。死を連想させるからと、数字の4さえも嫌われます。心が暗くなるからでありましょう。
「いつかは死ぬだろうが、遠い先だ」と安心しようとしていますが、「後の世と聞けば遠きに似たれども、知らずや今日もその日なるらん」。この世の終わりは今日かもしれぬことです。
18歳の女子高生が、通学途中に土砂の下敷きになって死亡しています。悲鳴すら上げる間もない一瞬だったといいます。
人生には、いろいろな問題があります。受験、就職、結婚、出産、子育て、病気、家のローン、親の介護、不慮の事故など、頭を悩ますことが次々に起きてきます。みな何とか乗り越えようと必死です。
しかし、「今日が人生最後の日」となったらどうでしょう。もはや生き方は問題ではありません。「死んだらどうなるか」だけが大問題となるのです。これを、生死の一大事ともいいます。
死ぬことを「旅立つ」といいますが、どこへ旅立つかは、誰も知りません。そんな不安を抱えながら、死の直前まで目を背けて生きているのです。
「仏教は、死を強調するから嫌いだ」と言う人があります。
しかし、死の問題に目をつぶって、どうして真に明るい生が開かれましょうか。
だからこそ仏教は、人生最大の問題である後生の一大事の解決を急げと説くのです。
「八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世を知るを智者とす、と言えり」(御文章)
たとえインターネットで得た情報を全て知っていても、「死んだらどうなるか」がハッキリしていなければ愚者であり、無学文盲であっても、後生の一大事を解決した人こそが智者である、と蓮如上人は仰せなのです。