ああ、不思議なるかな無碍の一道
比叡山の荒行の一つ「十二年籠山行」を終えた僧侶が、「戦後7人目」として、今年4月にニュースになりました。それに関連し、戦後6人目の達成者である延暦寺観明院の住職がインタビューで、こう答えています。
「12年間、たった一人で山に籠る壮絶な修行をしても、悟りなんていうものは得られませんし、煩悩もあります」
すでに800年前、親鸞聖人は9歳で比叡山に入られて20年間、大曼の難行までなされましたが、煩悩は少しも変わらなかったと絶望されました。それどころか「人間は、煩悩が死ぬまで静まりもしなければ、減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない」と仰っています。
「凡夫(人間)というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず」
(一念多念証文)
この欲や怒り、ねたみそねみの煩悩によって罪悪を造り続けるから、『正信偈』には「一生造悪」と懺悔されています。
そんな私たちを哀れみ悲しみ、本当の幸福に救い摂ってやりたいと大慈悲心を起こされた阿弥陀仏は、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」
を建立してくださいました。それが、阿弥陀仏の本願といわれるものです。
激しく燃え盛る欲望や怒りの煩悩で、死ぬまで苦しみ惑う私たちを弥陀は、「必ず、無碍の一道に救う」と誓われています。
碍りとは、私たちの幸せを破壊する煩悩のこと。必死につかんだ幸福も、欲望が肥大したり、怒りの炎が噴き上がると、たちまち崩れてしまいます。ところが弥陀は、そんな煩悩あるがままで、全く浄土往生の碍りにならない絶対の幸福に救う、と約束されているのです。
その本願に救われ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となった大満足は、何があろうと色あせず、壊れることもない、永久不変の幸福です。
「えー、そんな幸せが本当にあるの?考えられない」と誰もが驚き、耳を疑うでしょう。
しかし、親鸞聖人は、
「念仏者は無碍の一道なり」
(弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である)
と『歎異抄』7章にきっぱり宣言なされています。
さらに9章には、喜ばぬ心(煩悩)が見えれば見えるほど、喜ばずにおれない不思議な幸せを、こう讃嘆されています。
「仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり」
弥陀の本願は、煩悩具足の親鸞一人がためだったと感泣される尊容が、髣髴とするではありませんか。