後生こそ一大事なり
「八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとい、一文不知の尼入道なりというとも、後世を知るを智者とす、といえり」(御文章)
7千余巻の経典をはじめ、今日の百科事典、インターネット上のあらゆる知識を丸暗記する人がいたとしても、死後どうなるか分からなければ愚者であり、字も読めない無知な人であっても、後生の行き先がハッキリしていれば智者だと、蓮如上人は教えられています。
愚者か智者かは、後世を知るか否かで決まるのです。それこそ人生の最大事だからです。
「生きる」とは、昨日から今日、今日から明日へと「進む」ことです。止まることも、戻ることもできません。そしてどんな人も、最後ぶつかるのは「死」です。それは、今晩かもしれないのです。
交通事故による死者は着実に減り、3年連続で過去最低を更新していますが、それでも1日当たり9人です。それらの方は家を出る時、二度と「ただいま」が言えなくなるとは、夢想だにしていなかったでしょう。
日本では毎日、ガンで1000人、心臓病で500人が亡くなり、事故や老衰などを総計すると、3000人以上が後生へ旅立っています。では一息切れたら、どこへ向かうのでしょうか。科学も医学も、この問いには何一つ答えられません。
だから死については「考えないようにする」というのが、一般の態度です。だがそんな応急処置が通用するのは、健康な間だけです。眺めている他人の死と、眼前に迫った自己の死は、動物園で見ている虎と、山中で出くわした虎ほどの違いがあるからです。
去る1月の末、直木賞作家の藤田宜永氏が、ガンで死去しました。腫瘍が見つかってから亡くなるまでの2年、氏は一切の仕事に背を向けました。同じく人気作家だった、妻の小池真理子さんに「書くことはもう、苦痛でしかない」と、何度も明かしたといいます。
治療と検査のたびに、結果に怯える彼を支配していたのは、不安と苦悩だけでした。絶望の底から、「文学も哲学も思想も、もはや自分にとっては無意味」とまで言い切る夫に、妻は為す術もなく、嗚咽あるのみでした。
死に直面したら、問題になるのは、後生どこへ行くかだけです。それに役立たない知識は、全て無意味となり、灰と化してしまいます。
死ねば必ず弥陀の浄土へ往けると、後生の明るい人こそ、真の智者であり、人生の大勝利者なのです。
一刻も早く解決すべきは、後生の大問題。それに比すれば、この世どう生きるかの問題は皆、小事なのです。仏教で大事はただ一つ、「後生の一大事」に限るのです。