ああ、不思議なるかなや 弥陀の誓願
国宝級の名文『歎異抄』は、親鸞聖人の肉声を、弟子の唯円が記した書とされています。
全18章は第1章におさまり、とりわけ冒頭の一文は、弥陀の救いの肝要を明示しています。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
(弥陀の誓願不思議に助けて頂いて、往生できると明らかになり、念仏称えようと思い立ったその時、摂取不捨の幸福にして頂くのである)
「弥陀の誓願」とは阿弥陀仏の本願のことです。その弥陀の本願に救われると、「摂取不捨の利益にあずかる」と明言されています。
「摂取不捨」とは、「摂め取って捨てぬ」ことであり、「利益」とは幸福のことですから、「ガチッと摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福」を「摂取不捨の利益」といわれます。「絶対の幸福」とも言えましょう。まさに万人の希求する永久に変わらぬ幸せであり、人生の目的です。
日本のコロナ感染者は急速に減少しましたが、死者は全世界で500万人に達し、冬の第6波への恐れは消えません。私たちがコロナを恐れる根底には、死んだらどうなるか分からぬ暗い心が横たわっています。この死後が暗い心がある限り、人は何を手に入れても真の幸福にはなれないのです。
ところが、弥陀の誓願に救われ絶対の幸福になれば、死後、必ず浄土に往生できるとハッキリします。それが、「往生をば遂ぐるなりと信じて」の意味です。この「信じて」は、常識で読むと大怪我をします。
一般には、「信じる」とは「疑っていない」ことだと思われていますが、疑う余地のないことは「信じる」とは言いません。「知っている」と言います。
眼前に明らかな今日の天気を、「快晴と信じる」とは誰も言いません。明日の天気は明日にならないと分からないから、「晴れると信じる」と言います。信じるのは、疑いがあるからです。
しかし親鸞聖人の仰る「往生をば遂ぐるなりと信じて」は、死後の浄土往生が、平生の一念にハッキリしたことなのです。
明日のことさえ分からないのに、どうして死後の極楽浄土が、生きている今、ハッキリするのでしょうか。それこそが弥陀の救いであり、「弥陀の誓願不思議」と仰るゆえんなのです。